法話の窓

「秋雨・・・サラサラと」

 日本の降水量は世界平均の一・六倍であるといわれています。四季折々に降る雨は風物詩なのでしょうが、近ごろ各地で発生している夏の線状降水帯や台風の豪雨は遠慮したいものですね。そんな大雨の季節も過ぎ去り、十月に入ってようやく晴れ間が続く天高い秋を迎えました。

 もちろん十月には雨が皆無というわけではありません。とはいえ、そんな季節になりながらも「○○と秋の空」といういわれがあるように、今晴れていたかと思えばにわかに時雨(しぐれ)たりもします。

 うちのお寺では毎月一回、日曜の朝に坐禅会をしています。下は小学生から上はお年寄りまで幅広い年齢の方々が集まります。

 雨模様の中での秋の坐禅会の日のことです。参加していた皆さんに坐禅の感想を聞いてみました。すると、一人のお子さんが「雨の音ってザーザー、ピチャピチャ、ポタポタといろんな音がありました」と答えたのです。なるほど、庭木に当たる音、トイに(したた)る音、地面に落ちる音とさまざまな音がしています。それを聞いた私は「坐禅をしながら耳を通して学ぶことがあるんだな。」と感心しました。

 実は禅宗には雨音を聞くことを題材とした「(きょう)(しょう)()(てき)(せい)」(『(へき)(がん)(ろく)』第四六則)という有名な公案があるからです。このお子さんは雨音を聞きながら禅の学びの入り口にたどり着いていたのかも知れません。

 『()()(せい)願文(がんもん)』という四句からなるお経の第三句に、「法門(ほうもん)無量(むりょう)誓願学(せいがんがく)」という言葉があります。これは、お釈迦さまの「無量」の「法門」を学ぶことを誓うという意味です。「法門」の「門」とは文字通り入り口のことです。真理に至る入り口は、もちろんたくさんあります。でも、禅宗では「()(もん)」、耳で聞くという入り口を特に大切にしています。

 禅宗の行事で和尚さんたちが誦むお経の中で一番長いのは「(りょう)(ごん)(しゅ)」という呪文系のものですが、この呪文が説かれている『楞厳経』では、「耳門」による修行の大切さが説かれています。その教えは「(もん)()(しゅ)」という一見難しそうなものですが、「聞」は、仏法を聞いて知ること、「思」は、それを自ら思惟する、つまりしっかり考えること、そして「修」は、それを実践することです。仏道を学ぶスタートは「聞く」ことにあるというのです。

 同じ坐禅会の参加者に、雨音を耳にして、「サラサラと聞こえる」と表現された方もおられました。私たちは「雨音」といえば、サラサラとは感じませんから「え、なぜ?」と尋ねました。

すると「落ち込んだ時に聞く雨音はかえってさわやかな感じがするからだ」と答えられるのを聞いて、落ち込んだ時は雨も鬱陶(うっとう)しいと感じると決めつけていた自分に気づかされました。

 私は「雨音はこういうものだ」と決め込み、素直に雨音を聞いていなかったのです。

 雨音は、ポタポタ、しとしと、サラサラと人によってその聞こえ方は違います。そこには入り口が用意されているのです。雑念や決め込みを捨てて、雨音に限らず、素直に全ての音に耳を傾けてみることが大切です。耳で聴く入り口をくぐれば、きっと無量の真理が見えてくるでしょう。雨音は秋に限りません。入り口をくぐるチャンスは一年中、目の前にあります。さあ、真理への入り口を自分で探してみましょう。

多田曹渓

 

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