法話の窓

小さな葉っぱの大きなお知らせ

朝晩は随分涼しく、秋たけなわの好時節となりました。私の住んでいる田舎寺は山の中にあります。この季節になると私は「ちいさい秋みつけた」を口ずさみながらよく境内を掃除します。そうすると、車に乗って移動する時には分からない様々な動きがあることに気づきます。

  一葉落ちて天下の秋を知る
          (『淮南子』「説山訓」)

 目の前に落ち葉がはらりと落ちる。それは小さな、なにげない自然の一風景です。忙しくて慌ただしい日常を過ごしていると、つい気づかずに通り過ぎてしまうような、かすかな自然の動きです。
 心を落ち着けて、ゆったりとした気持ちでいれば、葉っぱが一枚はらりと落ちた、そこに大きな大きな、世界一杯の、天地一杯の秋を感じる心があります。

 

  「大いなるかな心や」
   本来の心とは何と広大なものであろうか。天空の高さはきわまりないが、

   本来の心はその高さを超えている。
   大地の厚さは測ることができないが、本来の心はその厚さを越えている。
   太陽や月の光明より優れるものはないが、本来の心の輝きはその光明をも凌いでいる。
   宇宙は果てしないものだが、本来の心は宇宙を越えて無限である。

(『興禅護国論序』意訳)

 

 おおきな心を持てば、時間を超え、空間を超えて自由自在にこの世をかけめぐることができます。子どもに会えば子どもの気持ちになれます。お年寄りに会えばお年寄りの心に寄り添ってゆけます。
 最近は移動や買い物、日常生活の多くの場面においてスピードが重んじられる時代です。情報も同じ。より速く。それは一見合理的に思えますが、「一得一失」、失っているもの、見えなくなっているものも多いような気がします。
 時にはゆっくりと歩きながら、はらりと落ちた葉っぱに世界の秋を知る、そんな豊かでスケールの大きい心で過ごしてみたいものです。見るもの聞くもの、すべてが自分の庭であり、大自然に同化して、すべてのものに祝福されていることに気づく。それが幸せということではないかと思います。
 

関守研悟

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