たよらないのが仏さま ~法皇忌~
「世界の平和と人類の発展」、これは天皇陛下のお言葉ですが、我々現代人はすぐに言葉に色付けし、そこに人格を見ようとする癖がいつの間にか身に付いてしまっているようです。我々は、願いという言葉の在り方、こころの在り方を素直に拝受し、各々の世界の平和と人類という共同和合の存在がいっそう盛んな段階になる働きに努めることが大切ではないでしょうか。
NHKの番組でイジメについてある先生がこのようなお話をされてました。
「小学校、幼稚園、もっと前からこう教えてこられたと思う、明るく元気で友達いっぱいが良い事であると。この反対に静かで大人しく友達が多くない者は何か奇異の目でみられますが、そんなに悪いことなのでしょうか」。
勇気ある発言だなと思い、私自身の正しいと思う心を今一度素直に見直すきっかけをいただきました。
誰しも状況を安んじるため、己れの正当性を求め、論理や社会性、通念的な正義感、若しくは征服感の虜なのであります。全てとは思いませんが、どうやら大人になると人は己れの都合のいい、扱い易いような人を集め従えて自己責任から逃げる事で、いつまでも満足できない自分を誤魔化している様です。
人間は大人になると子供のこころを忘れてしまうのでしょうか。純粋であり愚かでもある非力な自己を支えるのは、取ってつけたような正義でも、他人を陥れてできる正当性でも無い。自他の分別に頼って我が人生から逃げている臆病な心にたよる奴隷には、私は救われないと骨身に沁みる思いをしてきた筈であるのに。
誰しも自他の分別から脱却し素直なこころの安定がなければ、我執による差別から離れ、頂いた仮和合の「いま、ここ、わたし」という本当の尊く限りある命を、おかげさまでと大切にする願いは叶わないのであります。
私の師匠は無口で一々指導をする様な事を言わない方でしたが、幼い頃からよく「優しい男になれ」と諭されました。今思えば、己れに対しての厳さ、自分一人ではない有り難さを知ることなくして、他人を認めて優しくなれる筈もないのであります。それは私達自身が頂き受け継いだ沢山のいのちと厳しくも優しいこころは、私を含めたこの世そのものであり、時代や状況に分別左右されるものではないからです。
この国に仏法を、臨済禅の安心の御教えを、という法皇様の自他の分別から離れた願いは、個の願いではなく我々の共に願う平和と発展への道がそこにあるのでしょう。
横関政徳