法話の窓

新緑の山のように

 5月になり、毎朝本堂の戸を開けてみますと、寒いころには霧が出て見えにくかった山の緑が日ごとに濃くなり、夏が近づいていることを感じさせてもらえます。
 「青山元不動 白雲自去来(せいざんもとふどう はくうんおのずからきょらいす)」(五灯会元)という禅語がございます。
 晴れあがった空のもと、青山は青々と輝きその周りにはふわふわと真っ白な雲が浮かんでいるという、自然の妙景を表わした語であります。
 この青山が私たちの心ならば、同じように白雲が現われてくるかもしれません。現われて来る雲は、私たちが日々の生活の中で、目で見ることや耳から入ってくる情報によって自分で作り出している知恵(知識)であります。その知恵が有ることによって、自分の考えを押し通したいという「我(が)」という雲が止めどなく現われ、またその雲が留まってしまっている状態ではないでしょうか。

 私が師匠のお寺で弟子入りして間もないころのことです。トイレ掃除をすることになりました。トイレに入ってまずトイレ掃除の道具を探しました。掃除用の雑巾と洗剤は見つかりましたが、どこを探しても掃除用のブラシが見つかりません。早く終わらせて次の作務(禅寺での労働)に行かねばならないので気は焦るばかりでした。
 私がいつまでたっても終わった報告に行かないので、しびれを切らした師匠が「まだ終わらないのか」とやって来ました。私はブラシが見つからないことを伝えると、師匠は目の前にあった亀の子たわしを手に取り、便器の中をゴリゴリこすり始めました。男性用と女性用と次々と便器をこすり始め、呆然としている私の目の前であっという間に掃除を終えてしまいました。
 その後、師匠に言われた一言が、「トイレ掃除は汚いところを掃除すると思っているだろう。そんな固定観念があるからいつまでたっても掃除ができないんだ。まずは自分の頭にかかっている固定観念という汚れを取り払え」。
 ハッとしました。トイレは汚いところという思いがありましたが、トイレはもともと汚れてはいないのです。自分で綺麗なトイレに汚れをためていたのです。それと同じように私たちも目や耳から自らため込んだ知恵を心にため込んで留めてしまっていることがあるのです。
 それこそが青山にかかった雲ということになるのです。雲は常に心に現われて来るものです。これからはできるだけ留めることなく、目の前に広がる新緑の青い山のように、すがすがしい心で過ごしたいものです。
 

坂本宗耕

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