法話の窓

心ある人に伝える

 「今年の八月をもちまして、戦没者慰霊祭を最後にします」と、地元の区長さんから告げられました。終戦からすでに75年が過ぎて、戦争を体験された方の多くは亡くなり、ご遺族もご高齢になって、年々お参りの方が少なくなったからです。
 毎年、8月近くになると戦争関連のテレビ番組が放送されるので、かろうじて若い世代の人々も戦争の悲惨さに触れる機会もあると思います。そんな中、沖縄や広島、長崎の戦没者慰霊祭を見ておりますと、学生代表の平和の誓い(追悼文)が朗読されます。
 まず文章を丸暗記していることに驚きますが、何より戦争を知らない世代が、戦争の悲惨さと平和への思いを読み込んでいることに感心します。このことは日頃から戦争の話を聞き、学習しているからでしょう。

 私が小学校一年生の時の話です。近所の商店街に片足のないおじいさんがいました。いわゆる傷痍軍人さんです。以前はそのような方が沢山いて、各家を門付して回っていたので、乞食や禅門という呼び方をしていました。こうした呼び方は差別的に聞こえますが、実は私たち禅宗のお坊さんが托鉢修行することを頭陀乞食行(ずだこつじきぎょう)というところから来ているようです。
 先程のおじいさんの話に戻ると、いつも商店街の通りの床几に腰かけて、ぼんやりと外を眺めているのが日課でした。子供たちが前を走り過ぎようとすると、おじいさんは突然怒鳴ります。始めはなぜ怒られているのかわかりませんでしたが、のちに「通りが狭いから、走ると危ない」ということだったようです。
 そのように怒鳴りつけられることが度々あり、いつしか近所の子供たちはおじいさんを怖れ、おじいさんの家の前を通る時には、誰もいないことを確かめて、足早に通り過ぎるようになりました。
 私たち子供の間では、「あのおじいさんは戦争で敵にやられたんだ」と勝手に噂し、いつしか「鬼軍曹」と呼ぶようになりました。

 ある日のこと、友達と公園に遊びに行く途中、うっかり鬼軍曹に見つかってしまいます。また、いつものように怒られると思った瞬間、私はとっさに敬礼をしました。すると、おじいさんは急に背筋を伸ばして、ピシッと敬礼を返したのです。この「敬礼」はもともと神仏や相手を敬って礼拝することです。
 おじいさんは戦時中に戻ったように「お前はどこの倅だ」、「はい、ぼくは〇〇町の松岡といいます」と元気に答えると「よし、元気があってよろしい、次」と、一緒にいた友達にも名乗らせました。すると鬼軍曹は、「自分は久留米 歩兵第四十八聯隊菊部隊の生き残りである」と答えて、「お前たちは元気に挨拶したから、小遣いをやる」といって、ズボンのポケットから小銭を取り出し、それぞれに渡してくれました。そんなことが数回ありましたが、いつしかおじいさんの姿を見かけることもなくなり、私たち子供も成長するにつれて、忘れるようになりました。

 昭和から平成、そして令和へと時代は変遷しましたが、神仏を敬い、生きとし生けるものを敬愛する心を忘れないようにしたいものです。そして、戦争の記憶と平和への願いを次の世代へと伝えていくことが私たちの務めではないかと思います。

  うちかざられし 王車も古び この身また 老に至らん
  されど心ある人の法は 老ゆることなし
  心ある人はまたたがいに 心ある人につたうればなり

                         (法句経一五一)
 

松岡宗鶴

 

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