法話の窓

さらりと

秋のお彼岸が過ぎ、爽やかな時候になってまいりました。今月五日は初祖・達磨大師の御命日です。大師は人々の迷いを救うため、法を伝えにインドから中国に渡られました。時の皇帝・武帝は篤い仏教信者であり、達磨大師がインドから中国に渡ってこられた話を聞き、特使を派遣して都に迎え、宮中にて対談することとなりました。そして質問します。
 「私は皇帝になって以来仏教を守り広めることに勤めてきました。寺を建てたり、僧侶に供養をしたり仏像も作らせ、写経などもいたしました。どのような功徳がありますか」
 達磨「無功徳(功徳は無い)」 
 更に武帝は「仏法の大切なありがたいところは」と尋ねると、
 達磨「廓然無聖(心がカラリとして、何も無い)」と答えました。
 誰しもが褒められたい、認められたいという承認欲求というものがあります。武帝は善行を並べて、達磨大師に褒められたい、御礼を述べてもらいたいとの思いが有ったのかも知れませんが、報いを求めて善い行ないをする事が、悩み迷いになる事を達磨大師は「無功徳」と一言で伝えています。更に仏法は有難いという思いが前提にある質問に対し、聖凡・迷悟・善悪などの二元対立を「廓然無聖」と一刀に断ち切られます。

 私が現在預かるお寺は、7年程住職が不在でした。入寺する時に先代寺庭さんから、「2年前にお寺の宝物である涅槃図を、ある総代さんが一人の御寄進で修復されたので、挨拶の折にはお礼を述べて下さい」と言われ、ご挨拶に伺った時にお礼を申し上げました。その方は「そんなこともあったなあ。新しい和尚にお礼を言われることでは無いし、気になっていたから修復しただけ」とさらりと言われました。謙遜されていたのかも知れませんが、飄々とした人柄の総代さんと対面し、お寺に篤い想いをもつ方なので粗相が無いようにと緊張していた私の心を解かしてくれました。

 人の為に善い事を行なったのにという気持ちを抱え込んでいると、お礼が無いと腹が立つことがありますし、善行もあまり誇らしげにされると周りからは恩着せがましいと疎まれることもあると思います。
 達磨大師は武帝の善行を非難されているのではなく、功徳があるという見返りを求める心を諫めておられます。功徳を積んだという考えも、功徳が無いという意識も無い、ただ無心にさらりと善行を重ねることで、「廓然無聖」の境涯に到り、それが真の功徳であると達磨大師は伝えています。

 秋の空のように留まらない澄み切った心で日々の務めをさらりと行じてまいりたいものです。

 

華山泰玄
 

ページの先頭へ