いのちの尊厳について思うこと
広島県と岡山県の山陽地方には、ものを使いきったときに使う方言「みてた」があります。「水がみててしもうた」とか「醤油がみててしもうた」など、岡山に来た当初「米がみてたけぇ、入れてぇてぇ」と言われ、どういう意味なのか全く理解できなかった言葉です。ところが、たまたま読んだ高知新聞社出版の「ことばの博物誌」に、いのちに関する言葉として「みてた」の由来を見つけました。現代の高知県にあたる土佐地方では、人が亡くなったことの敬語として「○○さんがみてた」と言うそうです。
人は母の胎内にいのちを宿されたとき、この世で生きる時間を得ます。そして、いのち、つまり時間を使いきったとき「みてた」というのです。「与えられたいのちいっぱいに生きられました」という、人の死を悼み敬う優しさが感じられます。
私が、指導を受けた僧堂の老師は、昨年九十四歳で亡くなられましたが、片方の眼が見えにくいので眼科を受診されたところ、脳腫瘍が原因であることがとわかりました。その後一切の治療は望まれず、隠棲されていた分院にて、お付きの者と、お世話をされていた信者さんに見守られ息を引き取られました。わずかな量の水しか喉を通らなくなっても、最期の最後までお付きの雲水には厳しく接せられ、そして、これまで修行僧たちを厳しく指導してこられた、師家としての尊厳をそこなわれることなく、まさに最期の一息まで禅僧として生き通されました。
大切なのは
かつてでもなく、
これからでもない。
一呼吸一呼吸の今である。
( 坂村真民さんの詩)
人が亡くなると、享年あるいは行年として年齢を数えますが、大切なことは生きたいのちの長さではなく、故人がどのように生き、どのように死にゆかれたかを、家族または関係のある人々が思い遣ることではないでしょうか。
現代は、死にゆく人の枕元に侍ることが少なくなりましたが、それでも死にゆく人の呼吸、息づかいを最期まで看取ることは、その人のいのちの尊厳を護るギリギリのところでもあり、そこに立ち会った人たちのいのちにも光明がさす、得がたい貴重な時でもあると思います。
村上明道