法話の窓

加護か負担か

 秋といえば行楽シーズン…気候も穏やかで全国各地の紅葉が見頃を迎えています。しかし今年はコロナ禍で観光旅行はおろか、里帰りさえも気遣いがあり難しい状況、今は一日でも早い収束を願うばかりです。

 そんな中、コロナ禍も大きな一因となっていますが、ここ数年、葬儀の際「家族葬」の形態をとる方や、法事の小規模化をとる方が徐々に増えてきました。また今後のことを考えて「墓じまい」を選択する方や仏壇・位牌を大きく整理(処分)する方も増えてきました。
 「後々の世代へ面倒や迷惑をかけたくない」「親戚やご近所の方々と親しくお付き合いができない」という理由が、その根底にあるのではないかと思います。この風潮は現代日本の進歩から見ても仕方ないことなのかもしれません。少しでも手間や煩わしさを省き、誰にも面倒迷惑をかけず個人中心で自由な日常生活を送ることができる、それが進歩の先にある理想形となっているからです。
 しかしそれは、私たち一人一人が数多のつながりの中に生かされている、という仏教が説く「縁起」の道理を晦(くら)ませていることでもあります。利便性を追求していくことは一見、物事を単純化し生活を快適にしていくことのように感じられますが、実はそうではなく、つながりを複雑不透明にし物事の上辺や都合のいい面だけを切り取って、物事の奥にある本質や不都合な面を置き去りにしてはっきり感じられなくしている、ということなのです。

 昔は、亡くなった先祖はつながりある生者を「加護」してくださる存在として考えられていました。また「死」はこの世に生を享受した瞬間より誰しも向き合うべき大きな宿命、「死者」はその宿命に長年向き合い乗り越えた先に存在する者として、そこに畏怖畏敬の念を育んできました。しかし今日では生者中心の思考となりつつある日常社会、利便性の追求と共に人間の「死」や「死者」は上辺や都合のいい面だけが切り取られることとなり、次第に生者にとっては単なる恐怖だけを与える不都合な事実や存在、いわゆる「負担」でしかなくなってしまいました。

 以前、あるご法事の際に小さなお子様連れの女性から、「いつか子どもにも私たち両親や本人の「死」という事実を伝えるべき時がくると思うのですが、その場合「いつ・どうやって」伝えるのが良いでしょうか?」という真摯な質問をいただいたことがあります。
 考えてみれば、テレビドラマや漫画や小説では様々な「死」のかたちが描かれていますし、新聞記事や報道番組ではほぼ毎日交通事故や殺人事件のニュースが報じられています。しかしそれらのすべてはどこか遠い場所の話で、どことなく「他人ごと」のように流れ過ぎてゆくものです。しかしそれがいざ「自分ごと」として受け止めなければならない時、本当に心苦しく耐え難いものとしてその人生に重くのしかかります。だからこそ言葉や知識ではなく、その重みを受け入れ、そこから力強く次の一歩踏み出せるだけの後押し(=「加護」)が必要、そこに葬儀や法事を営むことのひとつの意義があるのです。

 先祖は人生を「加護」してくださる存在なのか、「負担」として重くのしかかる存在なのか、それはひとえに生者である私たち一人一人の普段からの心がけひとつに依るところが大きいと思います。人間の「死」や「死者」は医療技術や生活環境の進歩によってどこか霞んで遠ざかったようにも感じられますが、100%明日のいのちを保障された人間は、これまでもこれからも誰一人として存在しない、それはこの世における不変且つ普遍の厳然たる道理です。「死」そのものはいつも遠ざけることなどできない一人一人の生と表裏一体の大きな宿命であること、昔の人々はそのことをいつも「自分ごと」であると強く意識して、そこに「加護」をいただくべく先祖供養を厳重に務めてこられたのではないでしょうか。

 昨日あったいのちが今日もあること、それは何よりも奇跡的で有り難いのです。そこに思いが及べば、自然とこれまでそのいのちを繋ぎ続けてきた数多の先祖へ感謝の念が芽生えてきます。今ここに存在する私たち一人ひとりが無数のいのちの先端に立っていることを自覚した時、そこから未来へと踏み出す新たな一歩は、自ずと正しく力強くなるはずです。混沌の時代を迎えている今こそまさに、その一歩を踏み出していくべき時ではないでしょうか。
 

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