法話の窓

「ありのままの自分を生きる」

 新型コロナウイルスの蔓延、異常気象による自然災害、凄惨な事件や事故。さまざまな災いが、いつ自分の身に起こるか分からない人生、思い通りにならない現実。私たちの日常生活は常に不安との戦いなのかもしれません。
 しかし、桜の花びらや木々の葉に表と裏があるように、不安の反対には必ず「安心(あんじん)」が身近なところにあるはずです。「安心」とは、文字の通り「心の安らぎ」のことで、仏教的には「悟りの境地」とも言えます。
私たちは、不安だらけの日常生活の中で、どうやって「安心」を見いだせばよいのでしょうか。

 中国唐代の禅僧・六祖慧能禅師の教えに次の言葉があります。

  「自心(じしん)の衆生を無辺に度せんと誓願す」

 『四弘誓願(しぐせいがん)』の第一句目「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)」を独自の見解で説かれています。衆生とは、この世の生きとし生けるすべての存在です。それは無辺、数限りなく存在しますが、自分のみならず、すべてのものを救っていこうと誓い願うこと。それが「衆生無辺誓願度」ということです。
 しかし、実際には、個々の力ですべての衆生を救うのは難しいことであります。そこで慧能禅師は、世の中の衆生ではなく、自分の心の中の衆生を救っていくことの大切さを示されたのです。まずは、自分の心の中の悩める衆生、不安な衆生を救っていく。そうすれば、自ずと世の中の衆生を救うことにつながると仰っています。

 かつて、帝国ホテルに竹谷年子さんという方がおられました。彼女は、女性客室係第一号として入社し、大変ながらもその仕事にやり甲斐を感じ、充実した日々を送っていました。帝国ホテルと言えば、日本を代表する一流ホテルで、海外から国賓級の宿泊者が訪れます。そのような中で、竹谷さんは、今の自分ではどうやっても思い通りに対応できない場面に直面し、ずいぶん悩み、落ち込んだそうです。その頃のことを次のように綴られています。

  『なんて私はダメなんだろう。ホテルで英語ができないのは致命的だ。どうすれば、「お前はダメだ。使い物にならない」と言われずに済むだろうか。先輩たちに迷惑をかけずに済むだろうか……。
私なりにあれこれ考えました。そうだ。私が一番下なのだから、一番下の仕事をすればいい。人の嫌がる仕事をすればいいのだと思いつきました。』

 竹谷さんの決心は、決して上を目指すことを諦めたわけではありません。英語を話せることがベストなのですが、一気にできるようになるわけではありません。英語を話せるように日々努力しつつ、今の自分にできることを最大限に頑張る。
 竹谷さんは、このような心の転換によって自分自身を救っていかれたのです。どうすればいいんだろうと悩む自分。どうしてできないんだろうと落ち込む自分。そんな自分の、心の中の不安な衆生を救っていく。
 これは、理想とする自分の姿を目標にしつつも、その心にとどまらない。やみくもに背伸びすることなく、ありのままの自分を生きる。今のありのままの自分、今の現実を受け入れるということであります。そこに「安心」を見いだすきっかけがあるものと思います。
 不安だらけの日常生活に不満を抱いてばかりいるよりも、今なすべきことを迷いなく一生懸命に務める。それが自らを救うことであり、世の中全体の幸福につながるのではないでしょうか。

 

岩浅慎龍

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