「供養のカタチ 私のカタチ」
最近、お盆の時期が近づくと決まってこんな電話が掛かってきます。「お盆ってやった方が良いんですか?」
こういう場合、ご本人は九分九厘「やらない」と心に決めた上で、最後の「いいね」を貰うためだけに電話してきています。それが解りますから、「お盆の供養は強制ではありません。あなたが供養してあげたいと思うようならお経に伺います」と答えると、安心したように「解りました」と言って電話が切れます。もちろんこれ以降、この方からは何の連絡もありません。
今年、あるお宅の初盆供養に伺った時のことです。このお宅はおじいさんが亡くなり、今年初盆を迎えられるお宅でした。初盆のお宅は仏壇とは別に、「精霊棚」という亡くなった家族をお迎えする祭壇を設けます。このお宅に行くと幼稚園に通う孫の女の子が、段ボールの箱で精霊棚を作ってくれていました。そこには「おじいちゃんのいえ」と書いてあります。他にも折紙で作った花や折鶴、折紙のチェーンの飾りも付いていて、まるでお遊戯会の舞台のようです。その子のお母さんが「和尚さん、こんな感じでも失礼ではないでしょうか?」と言いながら、自作の祭壇の前にちょこんと座る娘さんを抱きかかえて、私の後ろに座らせています。女の子の自慢の祭壇を前に、ご家族みんなで初盆供養のお経をあげさせていただきました。
お盆は梵語の「ウラボン」からきていて、その意は「逆さに吊下げられる苦しみ」だそうです。なるほど、死が近づいて来れば好きな物を食べることもままならず、病気の苦痛や「あの世」への不安・恐怖に襲われることでしょう。それはまさに「逆さ吊りの苦しみ」に等しいのかも知れません。残された家族は、生前の苦痛を労るように、せめて食べ物や花を供え、死者が帰ってくるのを待つのです。
翻って私自身の事を考えると、素直な心で死者を迎えることができるだろうかと疑問に思います。父である住職とは、寺の運営方針の違いから何度となく対立し、今では殆ど会話らしい会話もありません。父に盲従する母を疎ましく思い、故意に遠ざけてもきました。頭では「自分が変わらなければ」と思うのですが、長年の感情のしこりから素直になれずにいます。「何故、自分ばかりが我慢しなければいけないのか?」という頑なな気持ちが、「笑ったら負けだ」と言わんばかりに両親に対して自分の心を閉ざさせています。
あの女の子の作った段ボールの精霊棚を思い出すと、「逆さ吊り」で苦しんでいたのは私自身なのだと気付かされます。もし今の私が何処かのお寺の檀家だったら、同じように聞くでしょう。「お盆ってやった方が良いですか?」と。お盆には亡くなった家族が帰ってくると同事に、素直に「お帰り」と言えた幼い頃の自分自身も帰ってくるような気がします。溜め込んだ心の荷物を下ろすために。
木村嘉文