「足の裏」
いよいよ師走を迎えました。今年一年の歩みはいかがでしたでしょうか。
お寺の玄関でよく見かける「看脚下(かんきゃっか)」、または「照顧脚下(しょうこきゃっか)」という言葉があります。
その昔、中国に偉いお坊さんがいて3人の弟子を連れて夜道を歩いていたその時、一陣の風が吹き、その灯が吹き消され真っ暗になりました。その瞬間、偉いお坊さんは、「さあ、お前たち、どうするのか言え」と詰め寄ります。
そのうちの一人が、「看脚下(真っ暗で危ないから足元をみて歩きましょう)」と即答した、という逸話に由来します。外のことばかりではなく、自分自身を見つめなさいという教えです。
禅にも親しみ、祈りの詩人、仏教詩人とも呼ばれる坂村真民さんに「尊いのは足の裏である」と題した詩があります。
尊いのは 頭でなく 手でなく 足の裏である 一生人に知られず 一生きたない処と接し 黙々として その努めを果たしてゆく 足の裏が教えるもの しんみんよ 足の裏的な仕事をし 足の裏的な人間になれ
頭から 光が出る まだまだだめ 額から 光が出る まだまだいかん 足の裏から 光が出る そのような方こそ 本当に偉い人である
ある法事の席の話。亡くなられたお父さんは94歳でした。施主の方は現在84歳、お父さんのお歳まであと10年、でもそんなに生きたくないといいます。その理由は両手で顔も洗えないからと。足の裏に力が入らなくて、いつもどこかにつかまっていないと立っていられないから顔を洗うときは片手になる。歩くことも立つこともままならず、座ってテレビを見るだけの毎日。そういえば親父さんは、亡くなる三日前に調子を崩すまで山や畑で精出して仕事していた、思い出す姿はいつも裸足に草履ばき。足の裏に力があったんやな、親父には敵わんなぁと振り返りました。お別れにまた会いましょうねと声をかけると笑顔で応えてくれました。
足の裏といえば、わたしの日課のひとつのランニング。終えると足の裏のマッサージ。つい忘れがちな足の裏、以前は気にかけることはありませんでしたが、今では今日も一日中自分の重みを引き受けてくれる大切な部分であると労いながら足を揉む。そして坐禅会でも必ず坐る前に足裏を労いながらマッサージを参加者の皆さんとも一緒にするようになりました。先ずは足裏から調えていくことが大切だと思ったからです。
真民さんは、一日の始まりに自分の体を拝み、一日の終わりに自分の足の裏を洗い、感謝して寝ることを習慣としました。人としてどう生きるかという問いかけを素直なことばで書きつづった詩は「詩国」として全国に自費で送り続けました。そんな地道な活動は、人に知られなくとも、労をいとわず黙々とその努めを果たしてゆく、足の裏的。その姿が人びとの心に今も感動と元気を与え続けてくれます。
自分を生かしてくれる体、そして支えてくれる足裏に目を向けて、その尊さを知り、しっかりと地に足をつけて日々を送りたいものです。
羽賀浩規