法話の窓

春彼岸「毎年よ 彼岸の入りに 寒いのは」正岡子規

貴重な機会を頂きありがとうございます。私は岐阜県の大垣市という所に住んでおります。昨年、「ぎふ信長まつり」に木村拓哉さんが来られて岐阜市の名前を聞いた人もあるでしょうが、世間では岐阜が何処かも知らない方が多いようで、ついこのあいだ名古屋のアナウンサーさんに「愛知県の飛騨で」と紹介頂き(飛騨市は岐阜県です)、ちょっと都会になったように感じてしまったのは、岐阜が田舎である証拠なのでしょうね。

三月はお彼岸でお参りに帰郷して墓に行かれる方もおられることでしょう。マスク生活と規制のコロナ対策のおかげなのか、最近お参りが増えたように思います。
この頃はお墓に行って何をするか分からない人がけっこういるらしいですよ。中には御自分のお墓に草が生えていると御寺に文句を言う人もいるようですね。私が学生の頃には既に「墓参りのバイト」があり、草引き・御磨き・花入れ・お経と色々な事情の方の代理なんてのが有りましたが、今の時代に至っては線香蝋燭も持たず墓に来られる人もいるようです。来るだけでも有り難い時代なのだそうです。

  「毎年よ 彼岸の入りに 寒いのは」

この俳句は正岡子規さんのお母様が彼岸の入りだというのにまだまだ寒いと言う子供に答えた言葉をそのままにして俳句としたそうです。毎年毎年寒さの残る彼岸の入りは子規にとっては母の面影を感じる冷たくも優しい寒さであったのではないか、位牌や墓ではないが子規の心にある墓標と成ったのではないかと思うのであります。
我々凡夫の心というのは目の前のコロナという出来事に囚われ、こだわり、偏った想いを持ってしまうもので御座います。限りある人生であることを忘れて目標や夢が見えなくなってしまうのは如何なものでしょうか。
墓参りは先祖の御供養もそうですが、その沢山の命と心によって伝えられた御自身の尊き限りある命を確認される大切な節目ではないか。自分もそこで土に戻る、つまりは己のいく所と知る。囚われによって想像することが欠けてきたのが今の日本人の憂いを作り出し、自ら迷いのこんがらがる人生にしていないでしょうか。何より御自身の心に墓標を建てる事が人生の迷いの中に光を見出すヒントとなるのではないか。
日本の四季は我々人間に時の流れをお教えくださいます。光陰矢の如し、どうぞ菩提寺にお参り頂きますように。駄弁にて御目を汚しました。

横関政徳

 

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