法話の窓

「移ろう命の芽生え」

 梅が咲き、そして散り……木蓮が咲いて、また散って、今は桜が咲き誇り、目を楽しませてくれます。私たちの生活も別れと出会いの時節を迎えました。自然環境の移ろいと共に喜びと憂いを繰り返さねばならない無常の理はこの世の常です。
 お釈迦さまは「この世の全ては移ろい、永遠なものはない。無常である」と伝えました。まさに四月はこの「無常」を強く思い知らされる時節です。

  春惜しむ 命惜しむに 異ならず

 愛媛県松山市に生を受けた高浜虚子は、俳句は客観写生でなければならないと主張した俳人でした。彼が春の一日、桜の散る情景に命のはかなさを看て、春を惜しむように人のはかない命を惜しみました。

 かつて「自分だけ永遠の命を持てたらどうだろうか」と友人から問われたことがありました。私は言葉を模索するばかりで返答できません。
 不老不死のような話は昔から取り沙汰されてきました。誰もが若さと長寿に憧れ、ヒマラヤの奥地にある幻の花を探し彷徨うといった話です。
 友人は脳梗塞で言葉も発せられない寝たきりとなってしまった祖父を介護し、そして看取られました。食べ物を自分で口に運べなくなった祖父。胃ろう処置によって味覚をなくし、ただくだで胃の中に運ばれ流し込まれるだけの栄養では何の楽しみもなく、ただ生かされているだけの祖父の姿が先の言葉へと繋がったようでした。
 そして「人は死ぬのが怖いのに、死ねないのも、また怖い」「永遠の命をもったならば、みんなから置いてきぼりにされてしまう。一人ぼっちになってしまう淋しさを味わいながら生きていかなきゃならないのもまた辛い」と、黙り続ける私に代わって応えてくれました。
 友人は限りある祖父の命を目の当たりにして、やりきれない思いを持ちながらも命のはかなさを身をもって受け入れることができたのです。祖父との別れを通じて「永遠の命をもてたら」と願った言葉は、決して不老不死への憧れではありませんでした。まして死を恐怖し、死を嫌うことでもなかったのです。只々、祖父の死と向き合い見届け、その死を惜しむ優しさからの言葉だったと思えます。
 現前に広がる全ての存在が、永遠なものであれば移ろうことはありません。咲いた梅は咲いたまま、咲いた木蓮も咲いたまま、咲いた桜も咲いたままです。そこには喜びも、感動も、驚きも、憂いも、切なさもない、とても味気ない世界が展開するように思います。
 そして人の命も同じなのです。
 春は命の芽生えの季節です。刹那の命と真剣に向き合い、常に心新たにすることは、お釈迦さまの教えが芽生えることであると思えます。

多田曹溪

 

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