目には見えない「気持ち」が大切
私の住む愛知県春日井市では、8月がお盆の時期です。7月に入ると、お盆参りの準備やお寺の掃除などで徐々に忙しくなってきます。
この時期になると、毎年必ず何人かの檀家さまから質問されることがあります。それは、
「お盆のお供えは、どんなものを供えればいいでしょうか?」
ということです。私のいる地域では、8月13~15日のお盆中、一日三食違ったものをお供えし、帰って来られているご先祖さま方を丁重におもてなしするという文化が残っています。毎食お供えものを変えるため、それぞれどんなものを供えればよいのか「メニュー決め」に困る方もいらっしゃるようです。
確かに「これとこれを供えれば問題ないです」と誰かが決めてくれれば楽かもしれません。しかし、何を供えるか以前に、「どういう気持ちをもって相手に差し上げるか?」がいっそう大切なことではないでしょうか。たとえささやかだとしても、気持ちのこもったものは相手の悦びへとつながります。
つい最近、私もこのことを身をもって感じることがありました。7月末の猛暑日、市内の檀家さまのお宅での法事帰り。私は自転車でお寺まで戻っていました。先述のとおり、7月はお盆準備があり、私にとってはどこか気忙しくなる時期です。その日も私は「少しでも早くお寺に戻って、掃除と、塔婆書きと、事務仕事と……あれもこれもやらなくちゃ!」という思いで頭がいっぱいで、大急ぎで自転車をこいでいたのです。
すると遠くに、ご近所に住む、小さい頃からお世話になっている檀家のおじいさんが見えました。その方も私に気づいたようです。近づいていくと、なんと私の進行を防ぐ形で手足を「大」の字に広げ、通せんぼをしてきたのです。当然止まらざるを得ませんので、やむなくブレーキをかけました。
私は内心「早く戻ってお寺の仕事したいんだけどな……。」と思ってしまいました。するとその方は
「若さん、そんな急いでもいいことないよ! これあげるから、ちょっと休みな。」
と言って、冷たいペットボトルの水を差し出してくれました。聞けば、すぐそこのコンビニで自分用に買ったものだそう。ですが「暑くて喉かわいとるだろうから、あんたにやる!」と言って、買ったばかりの水をくださったのです。
その場でお水を一口頂きました。すると、そのお水のなんと美味しいこと。お盆の疲れとまとわりつく暑さが一気に吹き飛ぶ心地がしました(同時に、「忙しいのに勘弁してくれ」と思ってしまった自分を大いに反省しました……)。
何の変哲もない水が、なぜそれほど美味しく感じられたのでしょうか? それは、おじいさんの「お盆と猛暑で疲れているだろう若さんに、少しでも休んでもらおう」という思いやりが背景にあったからだと思います。おじいさんの優しいお気持ちは、お水とともに私の体と心に染みわたり、元気と喜びの源となりました。
相手を慮る気持ちは目には見えませんが、受け取る相手には必ず通じていくものです。何を差し上げるか・供えるか、形や体裁を調えることも大事ですが、それ以上に「どうしたら相手は喜んでくれるか」を我がこととして考えることがいっそう大切ではないでしょうか。