「源深くして流れ長し」
秋をむかえたこの時期は、運動会や文化祭など多くの行事が行われることと存じます。そのような時期に私にとっての大きな行事は、授業寺(得度した寺)の初代住職の法要である開山忌であります。コロナ禍においても、参列者の人数制限など感染対策を講じて途切れることなく毎年行われてきました。小僧時代から30年余り参加していますが、和尚方や参列者の方も少しずつ代替わりなどされて顔ぶれに変化があり、一抹の寂しさと月日の流れを感じながらも、変わらず毎年行事が行われることに感慨を覚えます。
その寺の応接間に大徳寺や妙心寺の管長を務められた後藤瑞巌老師の筆による「源深流長」の額が掲げられています。「源深くして流れ長し」水源が深いほど川の流れは長いという意味から、禅門では、教えが深いからこそ脈々とつながっていると解釈されます。この額を頂いたのは、第二次大戦の空襲によって本堂などの主要な建築物は焼失した時期で、老師は励ましの意味を込めて、この言葉を贈られたのでしょう。その後、先々代、先代の住職はじめ多くの人々の尽力により寺は復興され今日に到っています。人類の歴史を振り返れば多くの困難がありました。平穏な時代のほうが少ないくらいかもしれません。その中でその時々の人が懸命に命のバトンを繋いで、今に到っていることを考えるとひとりひとりの命の尊さを感じずにはおれません。しかし、残念ながら個体としての命には限りがあります。
鴨長明は『方丈記』の冒頭で「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」と全てのものが泡沫の如しと、諸行の無常なることを記しています。その泡沫である存在も、川の流れの中での、ひと時の姿であり、留まることのない大いなる「いのち」の流れの中にあることがこの文からは読み解けます。
時間という悠久の流れの中で結んでは消えていく儚い存在であるからこそ、個人の命は尊くかけがえがないのでしょう。また例年行われていた行事が開催されることは、実は貴重な機会であることにコロナ禍を経て、気が付かれた方も多いのではないでしょうか。
さまざまな行事は多くの人が集まって行われるものです。そして終われば通常の生活へと戻ってまいります。考えてみれば、今ここに自分が存在していることは一大行事であります。自らを見つめて、命の尊さに目覚め、源深く途切れたことのない「いのち」の流れの中で、二度とない今、自分の務めを粛々と行じてまいりたいものです。
華山泰玄