「仏の智慧を花開く」
二月十五日は、釈尊のご命日「涅槃会」です。涅槃とは、煩悩の束縛から解放され悟りを得ることです。釈尊は八十才で亡くなるまで、苦悩する人々を大慈悲心を持って救いました。その時その時、その人その人の苦しみに寄り添い教えを説いて、その人自身が自己の智慧を花開いて解脱するように導きました。
釈尊が祇園精舎にいた時のこと、若い女性がすでに亡くなってしまったわが子を抱いてやって来ました。可愛いわが子の死を受け入れられず「この子の病気を治して下さい」と彼女は釈尊に言いました。釈尊はその様子を静かに見て言いました。「私がその子の病を治してあげよう」と。釈尊は決して、死んだ者を生き返らせることはできない、などと否定せずに、悲しみの底にいるこの母を温かく受け入れたのでした。そして「町に出て芥子の実を四・五粒もらってきなさい。しかしその芥子の実は、未だ曽て死者を出したことのない家からもらうのだよ」と教示しました。釈尊のすぐれた慈悲と智慧方便が込められた言葉でした。彼女はすぐに町に行きました。
芥子の実はあるけれど死者を出したことのない家はありません。何日もかかって町中一朝一軒歩いて回るうちに、少しずつ彼女の心が落ち着いてきたのでしょう。心が落ち着くと知恵が働き出します。「この子は死んでしまってもう生き返りはしない。自分は何と無理なことを願っていたのだろう」と分かってきたのでした。智慧がはたらいて、諸行無常の道理に目覚め、自分の執着が自分を苦しめていたんだ、と気がつきます。
彼女は釈尊のもとに帰り、その静かなお姿に接し、その言葉の真実の意味を悟りました。そして、わが子の亡骸を墓所に葬り、釈尊の弟子になりました。
私たちは予期せぬ不幸に見舞われて、苦しみ悩み傷つきます。誰もやってくる出来事を避けることはできません。苦難の人生を生きなければならない私たちだからこそ、一人一人は、大いなる仏の智慧を頂いて生まれてきているのです。この智慧に目覚めることで苦難を正しく受けとめ正しく応じていくことができるのです。
『法句経372』に「智慧のないものには禅定はない。禅定のないものには智慧がない。雑定と智慧とを併せ具えるならば、彼は悟りに近づいている」と智慧と禅定(落ち着いた心)とが相即不離であることが説かれています。智慧を発揮するには、心を調えて落ち着いた静かな心になるのが肝要です。智慧に目覚めれば苦難を乗り越えるだけでなく、新たな生さ方に気づいて、自分の未来を切り開いていく大きな力にもなるのです。