法話の窓

「逆風張帆~心の帆を上げる~」

 この度の能登半島地震で被災された全ての皆さまに、心からのお見舞いを申し上げます。またご家族や大切な方々を失われた皆様に、謹んでお悔やみを申し上げます。

 3月は卒業や人事異動・転職など、新たな一歩を進む旅立ちの季節といえるでしょう。是非、この追い風(順風)を逃さずに心の帆を目一杯張り、前へお進み頂きたいと思います。
 一方で、残念ながら希望する場所に進むことが叶わなかった方や、不可抗力な理由や状況の中で、身動きを取ることが難しい方もいらっしゃることと思います。

 禅の言葉に「逆風張帆」(ぎゃくふうちょうはん)という言葉がございます。「逆風に帆を張る。」帆船が向かい風(逆風)の中で、帆を張るという意味です。

 3年前に享年74歳でこの世を去った圓通院先住職が子供の頃、本堂では、休みになると東北大学や東北学院大学のヨット部が合宿を行っていたそうです。それがご縁になったのでしょう。長じて自分でも船舶免許を取り、船を運転していたそうです。私にとって義理の父に当たる先住職は、生前よく自分の左手を少し上げ、「いいか。手の平の表と裏は一緒なんだぞ。」と、右手の人差し指で左手の手のひらに触れ、なぞらえながら手の甲そして、また元の場所へと一周させ、「ほらっ。」と口にしていました。
 調べてみたところ、ヨットには逆風でも風向きを見極め、一定の角度で帆を操り、ジグザグの航路で進んでいく「タッキング」という技があるそうです。ヨットは、逆風の中では、何もしないと、ただ流されてしまうからです。
 この「進む」という言葉は、現在尚、大変なご苦労をなされている方にとりましては、さぞかし酷な言葉に映るかもしれません。しかし、どんな状況でも、心の帆だけは上げたいものです。

 今から13年前の東日本大震災。私の住む日本三景の一つ、松島は県内では比較的少ない被害に留めることができました。震災後、地域僧侶で行った復興支援活動に、微力ながら参加させて頂き、避難所の慰問などを行わせて頂きました。しかし想像を絶する惨状の告白、そして自分だけが助かってよかったのか、などのお悩みに対して、何もおかけする言葉が見つかりませんでした。

 あれは先住職が亡くなる数か月前。コロナ禍で面会などに制限がある中、先住職が最期を寺院内か病院で迎える選択を迫られていた時、担当医師がこのような言葉を掛けてくださいました。
 「僕も一緒に悩ませてください。」
 私はその言葉を聞いて、自分の心が救われたと感じると同時に、私には本当の意味での、この心のありよう、相手のお悩みに対して心の帆を上げる姿勢が足りなかったと、気付かされたのです。
 つい先日、お寺にかかってきた一本のお悩み電話に対して、私はお答えしました。
 「私には根本的なお悩みの解決はできないかもしれません。でもお話をお伺いし、一緒に悩み、ご不安を整理する手伝いをして差し上げることはできるかもしれません。」その後、電話の向こうの見知らぬ方は、心が軽くなったと受話器を置かれました。
 今の私があのときの場に戻ったとしても、やはり何もおかけする言葉を見つけることができないかもしれません。ただ、以前と違うのは、一緒に悩ませていただく事だけはできると、そう信じるのです。そしてそれは一見すると、同じ手の平に留まり、何も進んでいないように見えるかもしれませんが、そこは一周廻った先の表裏一体の場所ではないかなと、そのように思うのです。僧侶の死は、教えを伝える場所を遷(うつ)すという意味で遷化(せんげ)といいます。
 先住職はきっと今もどこかで、帆を張り移動しながら、手の平をなぞっていることでしょう。

 

  向かい風 背中向ければ 追い風に(詠み人知らず)

 

 心の帆だけはいつも、そして少しでも高く上げたいものです。

 

天野太悦
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