「無常の中で」
寒さが和らぎ始めるこの季節。草木が弥や生い(いやおい)茂る月です。パステルカラーが野山にあふれ、桜の開花も待ち遠しいこの時期は世の無常を感じる季節でもあります。人生は思い通りにならない。しかしわかってはいても、いざその日を迎えると、人はとまどい煩悶し生きていく力さえ失いそうになります。そんな時お釈迦さまならどんな言葉をかけてくださるのでしょうか。
『法句経』114偈の因縁話にキサーゴータミーという女性について説かれた有名な話があります。彼女はサーヴァッティ(という地名)の貧しい家に生まれ、ある縁で富豪の息子と結婚しました。まもなく男の子が生まれましたが、よちよち歩きをする頃、その子は死んでしまいました。死ということを知らなかった彼女は、幼子のために薬を求め、狂った者のように訪ね回りました。そんな時、お釈迦さまに出会います。お釈迦さまは言われます。「私が治してあげよう。そのためにはケシの実を貰ってきなさい」「たったそれだけでいいんですか?」わらにもすがる思いのゴータミーにお釈迦さまは続けます。「しかし、条件があります。その身内で死人が出ていない家から貰ってきてください」と。「わかりました。」ゴータミーは村へと急ぎ、家々を回りました。しかし、ケシの実は一粒も見つかりませんでした。そうでしょう。身内で死人が出ていない人などいないのです。そして彼女は気づくのです。「ああ自分だけではないのだ」と。そして、その後ゴータミーは出家し、お釈迦さまのお弟子になりました。
この話は、「生まれるものは死がある」「私たちには必ず死や別れという苦しみがある」など様々な教えが含まれています。しかし、注目すべきはその苦しみの真っ只中にいる者に向かって、お釈迦さまは何の法も説かれていない点です。何か有難いお話をしてくれるわけでもなく、元気づけているわけでもない。ただケシの実を貰ってきなさいと、背中を押しただけに過ぎないのです。そして、ゴータミーは自分の足で家を回り人を訪ね、自らの力で気づきを得ました。この話は、あたかも“誰しも生まれながらに苦しみがある。しかしそれを乗り越える力を誰しも生まれながらに具えている”と教えてくれているように思えてなりません。むしろお釈迦さまはそれを言葉にせず説かれているともいえるでしょう。
その後、出家し尼となったゴータミーは、ある日、灯明の前に座り、その炎が消えたり点いたりするさまを見て感じとります。「生けるものたち(人々)はこのように生じたり滅したりしている。しかし、涅槃を得た者たちにはこのようなことは認められない」と。涅槃とは生死の迷いを超えた悟りの境地。その世界はどこか知らない世界にあるのではなく、自らの中にあるのです。
草木が芽吹き、花の香におうこの季節。お釈迦さまの無言の説法が聴こえてきます。