法話の窓

「放下著(ほうげじゃく)=捨て去ってしまえ!」

春は別れと旅立ちが交錯する季節である。名残惜しさと新たな環境への不安と緊張、期待が胸に広がる。時あたかも、桜の開花と花吹雪が私の心を映すかのように感じられる。
 季節の移ろいを見つめ、「諸行無常」の理(ことわり)を実感する。
 しかし、徒然草*注1 はこう喝破する。季節は一つが終わり、次が来るのではない。一つの季節の中に、既に次の季節の準備を含んでいる。葉が落ちて、次に芽を吹くのではない。その変化の兆しがどんどん膨らんでくる勢いに堪えきれずに交代してゆくのだと。
 卒業、入学、入社、転勤、転職、退職、結婚、離別など、人生には様々な節目がある。過去の柵(しがらみ)をきれいに清算して、新たなステージに踏み出したつもり。
 けれど慣れない環境の中で、戸惑い、不安を感じ、失敗を繰り返すうちに、つい以前の馴染んだ環境や肩書きを懐かしみ、過去に救いを求めてしまう。二度と戻れないとわかっていても、つい過去に拘泥してしまう。
 禅の逸話に「放下著(ほうげじゃく)*注2」という語がある。
 「本来無一物」=(全てに対する執着を捨て切った)お悟りを自負する弟子の厳陽尊者は、師匠である趙州和尚に尋ねた。「私は全てを捨てて、もはや拘泥する何ものをも、もっておりません。この先どんな修行をすれば良いのでしょう?」と。すると師匠は間髪入れず「捨て去ってしまえ!」。弟子は納得のゆかず「一体何を?」。最後には「その、なにもない、との意識をどこまでも担いで行け!」と一喝されてしまいます。
 とかく過去への未練やプライド、培ってきた思い込み、先入観、苦手意識が楔(くさび)となり、言い訳となって、新たな自分への脱皮を妨げ、自分で自分を苦しめてしまう私達。
 満開の花びらが散り終わって葉桜となる染井吉野に対し、山桜の一種「大山桜」がある。
 大ぶりな少し濃い桃色の花弁が開くと同時に滑滑(ぬめぬめ)とした立派な葉がその存在感を際立たせて見事だ。
 新たな環境に踏み出したのには、必ずやむを得ない理由があり、決して甘美な過去には戻れない。しかし、その離別の最中、既に新たな環境に適合できる力を私たちは内部に育んできているのだ。それを信じて、まっさらな裸の心で、目の前の一つ一つの事柄に、誠実に取り組んでゆくことで、必ず事態は切り開かれる。
 潔(いさぎよ)く次の季節に向かう自然の移ろいにじっくりと目を凝らし、わたくしに内在する大いなる命の営みを感じ取る好時節でもあろうか。

梅澤徹玄

*注1―第155段
*注2―『従容録』第57則本則
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