「おくりもの」
先日久々に会った「剣道スポーツ少年団」時代の仲間と昔話に花が咲きました。ふと小学校、中学校と長年にわたってお世話になった剣道のY先生はお元気であろうかと、当時を振り返りつつ思いを馳せました。
わたしが剣道を始めたきっかけは、小学三年生の時、学校の体育館を借りて開かれていた「剣道スポーツ少年団」の練習を、下校する際に見た友人から「僕たちも一緒にやろう」と誘われたからでした。
道具をそろえて練習にいくと、Y先生が「よろしく!」と大きな声と大きな手で迎えてくれたことを覚えています。
とにかくいつも声が大きくて厳しい指導でしたが、足運び、竹刀の振り下ろしから、防具の手入れに至るまで、初心者の私に寄り添って指導してくださいました。
稽古の時には、私たちの練習が一通り終わると、Y先生は他の指導員さんと模範稽古を見せてくれるのですが、体育館が振動するかのような凄まじい気合の掛け声を出されるので、その気迫に圧倒されていました。
先生はよく「ごはんを食べることが一番大事」と仰っていました。それもただ食べるのではなく、「おいしいと声に出して食べる!うれしいと声に出して食べる!ありがたいと声に出して食べること!」と言われていました。「家でのご飯も、給食も、外食でのご飯も、『おいしい』『うれしい』『ありがとう』と声に出して食べよう!」とも言われました。最初は気恥ずかしい思いでしたが、何度も言っているうちに、なんだか楽しくなって、呪文みたいに唱えていたことを思い出します。
高学年になると他の地域の「剣道少年団」と試合をする大会があり、弱いながらも参加することが大切な経験だということで私も試合に出していただきました。しかし出ればまず間違いなく負けるので、他の仲間に申し訳なく、負けたことで迷惑をかけた、ということに悔し涙を流していました。
試合が終わると、Y先生はいつも「今日はお疲れさま!帰ったらいっぱいごはんを食べろよ!そして、がんばった、楽しかった、悔しかった、痛かった、という気持ちも全部食べてしまおう!」と、笑って仰っていました。
楽しい気持ちだけではなく、つらい気持ちも食べてしまう。それはきっと体とこころの成長につながるということを、先生は私たちに教えてくださっていたのではないかと改めてこの時のことを思い返しています。とはいえ、当時の私には、ただつらいというだけで、負けた後に腹一杯ごはんを食べようなどという思いはまったくありませんでした。
明治十四年(一八八一)に出版された法話集『宗教燕語』(臨済宗九本山刊)の巻頭に、当時妙心寺派管長を勤められておられた関無学老師の墨蹟が揚げられており、そこには「花果樹根之一悲水」の八字が書かれています。「一悲水」とは、おそらくこの書物に収められた法話を指しているのでしょうが、私は、花も実も、それを支える幹も根も、大自然からの慈悲の雨という「おくりもの」によって育てられる、という意味に受けとめています。
どんな大樹も、一滴の雨によって育まれる。煩わしいと思ってしまう雨も、尊いおくりものなのです。
剣道のY先生の言葉も、多くの先達の指導も、私にとってはかけがえのない恵みであったと、今更ながらに気づかされています。
住職にとって、お盆はせわしい時期ですが、ひととき静かに坐って、先生、師匠、ご先祖さま、今を生きるたくさんの命の恵みをかみしめ、安らぎの祈りを送りたいと思っています。
星 大晃