法話の窓

千の風になって(2008/08)

 「千の風になって」

 ―この肉体は借りもので、いずれは皆、死を迎えますが、たとえ愛しい姿が見えなくなっても、優しい声が聞こえなくなっても、姿を変え、場所を変えて、たくさん(千)の風となって、あなたや家族を見守っているのです。 それに、あなたは気が付いていますか? どうか気が付いてほしいと、この詩は問いかけているように思えます。

 

 妙心寺の管長になられた山田無文老大師は大学生の頃、肺結核になってしまわれました。当時の事ですから、結核は死の病で医者にもさじを投げられ、失意と余命を数える体で故郷の実家に帰られました。 実家の離れに隔離されて、死を待っているような時のある朝、離れの縁側に出てみると、そよそよと風が吹いています。はっと、無文老大師は気が付きました。もうだめか、もうだめかと毎日過ごしていたけれど、こんな目に見えないものに囲まれて、守られて生かされていたじゃないか。そう気が付くと、泣けてしかたが無かったそうです。 その時に作られた歌が 「大いなるものに いだかれあることを けさふく風の すずしさにしる」です。 こう気が付かれてからは、生きていくことに力が出て、病気に立ち向かう事ができたと生前、よくお話をされていました。 目には見えないけれど「大いなるいのち」があることに気づき、今の自分や周りに感謝して生きる―それが仏教の一番大切な点です。 手を合わせ、念じる時に、亡くなった最愛の人も御先祖様もつねに自分を見守り、いつもそばにいてくださるのです。 そしてやがては、自分も愛しい人を見守る「大いなるいのち」―仏さまの元に帰っていきます。 この尊い「大いなるいのち」は、森羅万象すべてのものにつながる「いのち」なのです。一見、自分と他人は違うように考えますが、実は自分につながる同じ「いのち」なのです。体や寿命の命も含んだ、「大いなるいのち」につながっている事に気付きたいものです。

 

 今日も太陽は輝き、風が吹いています。 み仏やご先祖様は、千の風になって、大きな空を吹き渡っています。禅の教えに心素直に耳を傾ける時、私たちは色々な事に気付き、色々な事から教えを受ける事が出来ます。そして、実り多き人生を生きることが出来るのではないでしょうか。

谷 玄康

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