金屑貴しといえども......写経のすすめ(2008/09)
お寺の本堂にお参りをすると、大小の鐘や大きな木魚に、大きな太鼓などを目にすると思います。法要の始まりの合図に鐘が鳴らされ、太鼓が打ち鳴らされ、読経の声とともに木魚の音が堂内に満ちます。このように禅寺の法要は、様々な鳴らし物で厳粛に執り行われます。 世の中、クイズ番組が流行っていますから、ここで問題です。「お寺の鳴らし物は、どうしていい音がするのでしょうか」。答えは、どれも中が空洞で、空っぽだからです。 あるとき、読経を始めようと経机の鈴を鳴らすと、ビリビリと耳慣れない音がしました。よく見ると、中に木の枝が入っていました。おそらく、幼稚園の子どもか誰かが入れたのでしょう。たかが小さな枯れ枝ですが、それがあることでなんと不快な音がするのでしょう。
禅のことばに、「金屑貴しといえども、眼に落ちて翳と成る」とあります。「金」は小さな破片でも高価なものですが、金箔のかけらが目に入ったら視界をさえぎるゴミにしかならない、というのです。子どもにとって小枝は後でアリと遊ぶための大切な道具だったかもしれません。でも、鈴の中にあったのでは、せっかくいい音がする鈴も不快な音しか出せなくなってしまいます。 私たちが生活していくうえで、パソコンとか英語とか、知識はとても大切なものです。また、子どもの成長とともに教育費もかかるし、年金があてにならなければ老後の資金も考え直さなければ、と財産も大切です。仕事で営業に回るにはある程度の肩書きも必要でしょう。そんな知識・財産・地位なども、間違えたら「眼に落ちて翳と成る」のです。 自らに照らしてみると、人から不快なことを言われて、貴重な忠告だと受け取れずに、「何をっ」と憤ったり、自分の至らなさを棚に上げて、「あいつのせいだ」と言うのは、こころの中の金屑が言わせているのです。また、生老病死という私たちのいのちの四つの相は、自分の力ではどうしても避けることができないのに、抗っては悩みや苦しみの種にしてしまうのも、心の中の金屑のせいです。そんな金屑を心の中から取り去ってしまえば、他人のことばも忠告と聞き入れることができるでしょうし、悩みや苦しみの種を除くことができるにちがいありません。
開山無相大師の六百五十年の遠諱にあたり、本山では写経運動が盛んです。菩提寺様で写経のポスターを目にされたり、写経のパンフレットを手にされたりしていらっしゃるのではないかと思います。 写経の大切なことの一つは、字が上手になるといった知識ではなく、一字一字を素直に写すこと、つまりは一字一字を受け入れていくことです。般若心経二百六十二文字の中には、得意な字もあれば、形を整えるのが苦手な字もあります。書き終えた字を見ると、上手に書こうと力の入った字、集中力が散漫になって書いた字などが目に付くこともあります。それでも、書き終えるにはどんな字も書き進めていかなければいけません。 私たちの一生も、気の合う人だけとの出会いで送れるはずもありません。苦手な人とも一緒に仕事もしなければなりません。避けては通れないわけですから、私たちは受け入れていかなければいけません。そのとき、自らの金屑である知識や地位をこころに翳しているとストレスがたまってしまうでしょう。ここは一つ、写経のように好きも嫌いもそのまま受け入れていかなければなりません。そのために写経の一字は一人、さまざまな人との出会いと置き換えたらどうでしょう。一字一人です。 どのような人との出会いも素直に受け入れることができる人は、相手のいのちの貴さにも気づくことができるに違いありません。
宮田 宗格