法話の窓

一周忌(2008/11)

 世の中は 何にたとえん水鳥の 嘴ふる露に宿る月影 (道元禅師)

 

人生はまことに無常なものであります。早いもので、もう年経ってしまいました。

 

二度とない人生だから
つゆぐさのつゆにも
めぐり合いの不思議を思い
足をとどめてみつめてゆこう
二度とない人生だから
まず一番身近な人たちに
できるだけのことをしよう
貧しいけれど心ゆたかに接してゆこう

 

坂村真民にこんな詩があります。生前どんなに孝養を尽されてもなおかつ、孝行のしたい時分に親はなし、なのではありますまいか。尽せども尽し切れないところに追善供養先祖供養のおこりがあろうと存じます。

 ところで、本日の一周忌は小祥忌とも言い俗にむかわりとも申します。すでに営まれた百ヶ日忌(卒哭忌)明年迎える三周忌(大祥忌)と共に需教の礼法に做ったものです。大祥忌に次いで、現在では一般に七年、十三年、十七年、二十三年、二十七年、三十三年の法要が営まれております。

 

 しかし、需教に做ったからといって、決して借物ではありません。インドから中国へと伝った仏教は中国において、さまざまな文化、思想を吸収して日本に伝わって来ましたちそして、日本の祖先崇拝の思想と相俟って現在の年回法要の習慣となったのであります。すなわち、これは日本仏教のすばらしい営みなのです。

 さて、ここで振り返ってみたいことは、年回法要などにおけるおまつりの心がまえであります。お茶湯、お花、お線香、果物、お霊供、お灯明などをお供えするのですが、どのいづれを取りましても真心がこもっていることが肝要です。

 

姑よりも 恵まれし今 墓に詣で
合わす掌に 詫びも含めて(妙澄)

 

 来し方を振り返りつつ、敬虔な気持で霊前に額衝く時、自と清浄になるのであります。どうやら、法要は亡の霊に供養するのみならず、同時に私どもが仏様に導かれる一大因縁でありましょう。

 廻向文に「願くは、この功徳をもって、普く一切に及ぼし、我らと、衆生と皆共に仏道を成ぜんことを」とお唱えします。仏様を拝み、開山さまを拝み、祖先をお祀りし、年回法要を営むのは、他でもありません。「どうか、この功徳が、一切の仏様、一切の先亡の霊、一切の人々に及んで、すべての人々や一切の先立の霊と今日弔う霊と私達とみんなともに仏様の道を成就いたしましょう」という願いであり、誓いなのであります。最後に皆さんご一緒にお唱えして、本日○○○○大姉一周忌法要のご廻向をいたします。
 

法話集「渓声」より

 

小田 実全

ページの先頭へ