法話の窓

唯我独尊(2010/04)

 四月八日は、お釈迦さまがお生まれになった日です。私たち、いや全人類にこの上ない尊い教えを下さった、お釈迦さまの誕生日をお祝いする花祭りに、誕生仏をお祀りし、甘茶を灌いでお供養します。
お釈迦さまは、お生まれになるとすぐ、両手で天と地を指さし「天上天下唯我独尊」と称えられたといわれています。それを形に現わしたのが、花祭りでお祀りする誕生仏です。それでは「天上天下唯我独尊」とは、一体私たちに何を教えていただいたお言葉なのでしょうか。


 昨年、ある老人会でお話をする機会をいただきました。そこにはいわゆる老人の方々と、お世話をなさる中年の方々が居られます。
第二次大戦が終って今年で五十八年になりますが、終戦前後の何も無い苦しい時代から今日に至るまでには、いろいろと便利なものが出て来て、ずいぶん暮らしも楽になってきました。
自分のお家で、何が使えるようになった時が嬉しかったでしょう?と聞いてみました。
すると、女性方は洗濯機が第一でした。そして、電動ミシン・冷蔵庫・テレビそれもカラーテレビ・温水器・ガスレンジ。男性は自家用車・コンバイン・携帯電話・パソコンと出てきました。まだまだここには書ききれない程、多くの物が生活を支えてくれるようになってきたことに、みんな改めて気づかされたのでした。


 そこで、五十余年の間にこれ程豊かになったのだから、皆さん方はさぞ幸福を感じながらお暮らしでしょうね?と問いかけますと、一瞬にして皆さんの顔つきが変わり、お互いの顔を見合わせ、「いや昔の方が幸せでした、今は幸福という実感が薄くなった」と......。
これはある老人会での一コマですが、このようなことは、読者の皆さんも大なり小なり感じておられることでしょう。


 戦後の苦しい頃は、石けんで洗濯板を使って家族みんなの洗濯をしていた、田んぼは牛を使って耕し、家族総出で稲を刈った。苦しかったけれども、今より喜びがありました。
自分の体を動かして、何でもこなしていたのに、自分の代わりに機械やエネルギーがやってくれるようになって、結果的には人間の能力がそれだけ低下してしまいました。
人間は機械やエネルギーだけでなく、他の人に依存して生きるように変わってきたのです。また、情報化した社会では、体験を通して得た実感が乏しくなり、情報によりかかって生きる度合いが高くなってきています。


 近代化という言葉には、何か明るい方向に変わっていくようなイメージが持たれています。けれども、私たちをとり巻く環境は、決していい方向に変わっているとばかりは言えないようです。
他の人間や、道具や、エネルギーに寄りかかり、情報に流されて、自分の手応えで喜びを感じることが難しくなってきています。
原点にたち帰って、自分を見つめ直すことがどうしても必要です。


おのれこそ おのれの救主
おのれこそ おのれの帰依
されば まこと商侶の よき馬を
ととのうるがごとく おのれを制えよ
(法句経三八〇・友松圓諦訳)


 このように、ととのえられた自分以外に何ひとつ頼りになるものはありません。
 欲望、我執をはなれて自らをととのえていれば、他に依存することもなく、失望することもなく、生かされている自分を喜び、感謝し、報恩の日々を送ることができるでしょう。
 それには、現代の世相に毒されないように、日々静かに、己をととのえる時間を持ちたいものです。
お釈迦さまが天地を指さされているお姿は、欲望、我執にまみれた一人ひとりの中に、何ものにも優る尊いものをいただいていることをお教え下さっているのです。

合 掌

 

 

家永重遠

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