法話の窓

丸い心(2010/09)

 9月はお彼岸の月です。このお彼岸の行事は聖徳太子さまの頃から、春、秋のお中日をはさんで1週間ずつ行われています。他の仏教国には彼岸(悟りの世界)に渡るための教えはありますが、その特別な修行の期間はありません。四季のはっきりした日本ならではの仏教行事です。
 お中日には太陽が真東からのぼり、真西に沈みます。昼と夜の長さが同じで、暑くもなく寒くもなく、天地自然が穏やかで調和のとれた時期です。日頃、仕事や家事などに振り回されてあわただしい毎日を送っている私たちも、せめてこの1週間は大自然のように調和のとれた、穏やかな心で暮らしましょうという、いわば仏教の実践週間ともいえるのがこのお彼岸の行事です。

 

 私の町にある缶詰会社に、中国から大勢の若い女性たちが働きに来ています。その中の1人、Sさんは毎月私のお寺で行われる写経会に参加しています。写経した般若心経をご本尊様に納経したあと、いつも5分くらいじっと手を合わせて一心に何かをお願いしています。多分遠く離れた家族のことや、異国で働く自身の健康などをお祈りしているのだろうと想像していましたが、ある時「Sさん、いつも長い時間何をお願いしているの?」と聞くと意外にも 「何もお願いしてません。心が丸くなるからです。」という答えが返ってきました。心が丸くなる!彼女の未熟な日本語のせいかも知れませんが、心が丸くなるという表現に驚き、また感心させられました。ある老師様の書かれた「この丸は月か団子か桶の輪か、カドのとれたる人の心ぞ」という一円相の墨蹟が思い浮かびました。
 私たちは仏様を拝むとき、つい自分や家族の幸せをお願いしてしまいます。仏様に幸せをお願いするのも悪いことではありません。しかし考えてみれば幸、不幸は自分自身の心が決めることなのです。心の持ち方次第、行い次第で私たちは幸せにも不幸にもなるのです。まさにー極楽も地獄もつくるは己がこころなりーです。Sさんはお願い事より、自分自身の心を丸くするために拝むというのです。
 私たちは日頃欲をかいたり、つまらないことに腹をたてたり、他人の悪口を言ったりしながら、貪・瞋・痴(とん・じん・ち)の三毒にまみれた、カドのある心で毎日を送っています。せっかく満月のような、まん丸い仏様の心でこの世に生まれてきたのに、いつの間にかあちらこちらへ角の出た、とがった心で暮らすようになってしまいました。こんな心ではどんなに仏様にお願いをしても幸せにはなれません。大切なのはまず自らを調え、丸い心になるということです。

 

 ご本山では平成14年から4年間、「禅・自らを調え生活を調えましょう。」を花園会員の実践目標にしています。自らを調えるということは、わがままで自分勝手な自己ではなく、かたよらない、とらわれない、思いやりのある丸い心の自己をつくるということです。
 ではどのようにしたら心を丸く、自分自身を調えられたものにしていくことができるのでしょうか。宗派によって異なりますが、私たちの臨済宗では坐禅によって心を調えます。ご本山の生活信条にも「一日一度は静かに坐って身と呼吸と心を調えましょう」とあります。坐禅は心を調えるのに大変効果があります。正式な坐禅でなくても静かに坐るだけで心が落ち着いてきます。この時大切なのが呼吸の仕方です。なるべく長くゆっくり、特に吐く息を長くすることです。白隠禅師も「長息は長生きなり」と長い息は心を平安に保ち、ひいては健康長寿に通じると教えています。
 最近書店へ行くと、この呼吸による健康法、ストレスの解消法などに関する本が目につきます。明治大学の斎藤孝教授は最近の著書『呼吸入門』の中で、「呼吸を考える上で大切なのは、吸うことではなく、吐くことです。息をゆるく吐き続けることで、攻撃衝動を抑える神経系が働き出す。内容がわからなくても読経の声を聴くと心が癒されるのは、ずっと吐き続ける呼吸法で読まれる読経の息とリズムによる。」と、心と呼吸とは密接な関係にあり、特に吐く息の呼吸の大切さを説いています。多くのスポーツ選手も試合などの前に呼吸を調えることによって平常心を保つことを実行しているそうです。生活信条の第一に心を調える方法として、静かに坐って、身体と呼吸を調えることの大切さが唱えられているゆえんです。


 お彼岸こそ日頃の自分自身を静かに振り返り、静かに坐って呼吸を調え、心を調えるのに最もふさわしい時ではないでしょうか。年間の仏教行事を通じて、丸い心、調えられた自己をつくることを実践していきましょう。

鮎川博道

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