法話の窓

心のプレゼント(2010/11)

 「世界の中心で、愛をさけぶ」この小説が爆発的に売れ、映画・ドラマと話題です。多くの人が撮影地巡りをしています。その地に立ち自ら何を感じるか確認したいのでしょう。
 私は原作が書かれた宇和島市の在住故、原作の名場面巡りをしました。小説の「対岸の小さな明かりは?石応か小池だろう・・・」この会話を頼りに夢島と思われる島に渡ると、作者が見た明かりは私の寺のある岬の灯台だと観じ、なんだか嬉しくなりました。
 十七歳の時、最愛の恋人を亡くした主人公、純粋さ故の深い悲しみに、心の扉を閉ざし毎日を虚無的に生きている。そんな時、新しい恋人と出逢い、再出発には心の整理が大切なことに気づく。思い出の後片づけにより自らの心の曇がとれ、多くの願いに出逢い、今すべき事を見つける。この姿に私は共感したのです。
 

 原作では「世界の中心」がどこかは明示されていませんが、「世界の中心=それぞれの心の中」「愛をさけぶ=思いを伝える」と考えると、映画を見て涙する多くの人達に、感動のプレゼントは届いたようです。
 十七歳の頃、両親を亡くした私は、未熟故、父母の死と向き合わず、自らの将来の不安で、故人の願いなど顧みる余裕がなく何時しか年月が過ぎていました。ある時、相田みつを博物館でこの詩に出逢ったのです。
 「つまずいたり ころんだりしたおかげで 物事を深く考えるようになりました。 あやまちや失敗をくり返したおかげで すこしずつだが人のやることを 暖かい目で見られるようになりました。 何回も追いつめられたおかげで 人間としての自分の弱さとだらしなさを いやというほど知りました。 だまされたり裏切られたりしたおかげで 馬鹿正直で親切な人間の暖かさも知りました。 そして...身近な人の死に逢うたびに 人のいのちのはかなさと いま ここに 生きていることの尊さを 骨身にしみて味わいました。 人のいのちの尊さを 骨身にしみて味わったおかげで 人のいのちをほんとうに大切にする ほんものの人間に裸で逢うことができました。 一人のほんものの人間に めぐり逢えたおかげで それが縁となり 次々に沢山のよい人たちに めぐり逢うことができました。 だから わたしのまわりにいる人たちは みんな よい人ばかりなんです。」
 読み終えた時、大粒の涙を流す自分がいました。自分の未熟さを顧み、今の自分を見つめる時、父母の死が私を導き、不思議な縁を与え、育んでいた事を実感したのです。
 故藤井虎山老師が「禅の修行は懺悔と礼拝である。礼拝の内容は懺悔と感謝であって、人間の心が正しく育つのはこの心です」とお説きです。懺悔と感謝を実感する時、心が調い、多くの縁を活かせるのです。

 


 先日一人の少女に出会いました。ほとんど満席のバスの中、金髪、ピアスが目立つ個性的な少女、その隣だけ空席です。是幸いと私は座りました。少女が鞄の中を探す仕草に、私は降りるものと席を立つと予想に反して降車ボタンを押しません。しかし、バス停に着いた女の子は席を離れたのです。ふと車外を見るとお年寄りが・・・少女は二つ先のバス停で降りたのですが。さりげなく席を譲った少女の心優しさの片鱗に気づき、色眼鏡で見ていた自分を反省したのです。
 私達は外見でとかく判断して心に壁を作り、人との触れあいを避ける傾向が見受けられます。少女も声を掛けずに席を立った姿に私は少し拘りを感じます、派手に外見を飾るのは、周囲と一線を引く心の鎧に見えたのです。多くの人が何かに拘り素直に行動できないでいます。「どうぞ」と席を譲る教育も大切だが「有り難う・ごめんね」と受け取ってあげる素直な心遣いこそ、今大切なのです。仏教は思いやる心を慈悲と言い、キリスト教は愛です。「愛するということは我らが互いに見つめ合う事ではなく、共に同じ方向を見つめること」の言葉をサン・テグジュベリが残しています。


 見えないものを見る目・知る心を持ち、一人でないと感じるとき、心の鎧がとれ、周囲と共に手を取り、今此処にいない人達とも心を繋いで歩む、大きな世界観を得るのです。

山崎忠司

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