法話の窓

温かい心(2011/03)

 それは朝から小雨の降る肌寒い日のことでした。今日はN市の檀家様の石塔開眼法要の日です。N市迄は車で二時間ほど。その檀家様から頂いていた住所を頼りに車を走らせました。もう着いてもよさそうなのですが霊園が見えてきません。やはりはじめての所は地理が分かりづらい。それに私は大の方向音痴なのです。約束の時間が迫り、お参りのお方を雨の中に長くお待たせしては申し訳ないと思い、焦(あせ)ってきます。
 こうなれば聞くしかありません。車を止めて近くのおじさんに、霊園の住所を示して尋ねました。
 おじさんは
 「口で説明してもわかりにくい所だから。私が先導するからついて来なさい。」
 と言って、仕事の手を休めて、ものかげに停めてあったバイクにまたがり、走り出しました。確かにわかりにくい道でした。すぐ近くかと思っていましたら、かなりの距離でした。

 

 やがて、おじさんはバイクを止め、指をさして霊園入口の看板を教えてくれました。仕事中にもかかわらず、しかも小雨の中、道案内をして下さったおじさんの親切に深く感謝しました。
 「おじさん助かりました。本当にご親切に有り難うございました。」
 油代にでもしていただこうかと、心ばかりの御礼をしようとしていると
 「和尚さんそんな気づかいは無用ですよ。今度和尚さんが困った人に出会った時、その人を助けてあげて下さい。そうして下さい。」
と言って、帰って行かれました。
 おじさんの温かい心とすばらしい言葉に出会い、私の心まで温かくなりました。その日一日は小雨が降り続く肌寒い日でしたが、私の心は温かく幸せな気分の一日となりました。思わぬところで幸せを頂きました。


 中国の詩人 載益が
  尽日(じんじつ)春を尋ねて春を見ず
  芒鞋(ぼうあい)踏んで遍(あまね)し隴頭(ろうとう)の雲
  帰り来たり適々に過ぐ梅花の下
  春は枝頭(しとう)に在って已(すで)に十分

 

 と詠んでいます。
 春はどこに来ているかと一日中探し回り、くたびれて自分の家に帰ってみたら自分の庭の梅の木に花が美しく咲いていた。あまりに身近で気がつかなかった。なんと探していた春は私の庭にしっかりと訪(おとず)れていた。思わぬ所に春を見つけ、心が満たされていく思いを詠んだのでしょう。求めていたものは実に足もとにあったのです。
 わたしたちは裕福に暮らすことが幸せ、高い地位につくことが幸せ、などなど日常の生活を離れ遠くに幸せを求めるあまり、ついつい日常の生活がおろそかになってはいないでしょうか。
 禅語に「照顧脚下(しょうこきゃっか)」という言葉があります。自分の足もと、自分の心をしっかり見つめなさい。大切なのはあなた自身の心のあり方、普段の毎日の生活にあるのですよ。そう教えています。足もとがおろそかになると転んでけがをします。毎日の生活を心をこめて、心を調えて過ごすことの大切さを教えています。
 日々を大切に暮らして行くところに、助け合う温かい心が生まれ、その温かい心が人を幸せにしてくれるのです。

 仏教詩人坂村真民さんの詩にこうあります。

  小さな事でいいのです
  あなたのむねのともしびを
  相手の人にうつしておやり

 

 テーマ【みんなで幸せになれるよう心のこもった助け合いをしましょう】の実践により、たくさんのともしびがともっていくことを願っています。

志佐 了拙

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