愛語 やさしさ(2011/06)
仏さまは、一切衆生に対して和らぎのある顔、慈愛のこもった言葉で接することの大切さを説かれています。
日本では昔から茶道・華道・剣道など「道」の字のつく芸能やスポーツがあります。
これはただお茶をどのように点てるか、お花をどのようにいけるか、という技術だけを学ぶものではありません。お茶やお花を学ぶ事を通して、人格を向上させ、仏の道を実践する事も含まれています。
仏の道を実践するという事は、己の心を調える事であります。調えられた状態から、和らぎのある姿が生まれ、慈愛にみちた言葉が発せられるのです。
仏さまは、私たちに日々の在り方として、財がなくても施す事のできる七つの姿を教えて下さっています。これを「無財の七施」といい、その中に和願施・言辞施があります。
和願施とは、字の如くにこやかな顔で人に接する事で、言辞施とは、思いやりのある温かい言葉で人に接する事です。
『無量寿経』にある和願愛語は、この顔の施しと言葉の施しなのです。
私たちは心が乱れますと、怒った顔になったり、言葉も荒々しくなります。心が調うと自然ににこやかな顔になり、和らかで親しみのある言葉で会話ができます。
そしてこの顔と言(ことば)は通じる所があって、怒った顔をしたら、言葉も荒々しくなる。笑った顔をすれば、和やかで親しみのある言葉で話せます。
さて、私たちの日々の生活の中で必ず人と人との出会いがあります。本当の出会いはよい言葉を交わし、その意味を理解しただけでは不十分で、その言わんとする事の奥深いところで、心がひとつになるものでなければなりません。それを信頼というのでしょうか。
出会った人の心が奥床しくて、仏様の心に通じるような本心から出た言葉でないと、思いやりのある優しいものとはならないでしょう。口から出まかせの人からは、到底愛語は得られません。仏の心に徹するとは心が清らかなことなのです。
「心浄ければ佛土清し」という言葉があります。佛土とは家庭であり、職場であり、地域社会であり、国であります。
社会を構成している一人一人が心を浄くして善い因縁を作れば浄らかとなります。
総理府の「社会意識に関する調査」で、日本人の約半数は、自分のことしか考えず、社会に役立つこと、社会の人々が和やかに暮らすことなど一切考えていないという統計がでていますが、これでは社会は到底良くなりません。
私の檀家さんで百三歳でなくなったおばあさんは、いつもニコニコと私のお参りを待ってくださいました。そのお婆さんは家の中では百歳を過ぎても、中心的な存在で、その微笑を絶やした事がなかったそうです。
お嫁さんにはいつも「ありがとう」「ありがとう」と言って、手を合わされ、「すみませんね」と、頭を下げていらっしゃった。
夜になるとお嫁さんに「疲れたでしょう。先にお休み」と優しい言葉をかけられたと言うことです。
つまり、この三つの言葉
「ありがとう」
「すみません」
「お先にどうぞ」を毎日言われていたのでした。
私は、その心の大きさ、お嫁さんや家族全員に対する優しさというものを、しみじみ感じました。
更に素晴らしいことは、そのお嫁さんを呼ぶときに「おかあさん」と言われるのです。若い時には、○○と、名前を呼び捨てにされたでしょう。又、うちの嫁はと言われたでしょうが、九十歳を過ぎてからは「おかあさん」です。なんと丸みの出たといいますか、お嫁さんを信頼しているというのか、これ以上の心からの信頼と愛情に満ちた優しい言葉はないと思います。これが愛語と言うのでしょう。
このお婆さんこそ、和願愛語を、終身一日一日、積み重ねた仏様であったと、今も私は思っています。そして、この愛語によって人は、人間関係、信頼を深めるとともに、自分自身をも向上させるのです。
岡島南圭