法話の窓

忘れぬ母の言葉 『人の物を盗むな』(2011/09)

 最近、人間関係を構築できずに悩み、登校拒否になる子供や、ひきこもりになる大人が増えていると聞きます。また壁の落書きや、空きカンの投げ捨てなどを見るにつけ、他人の迷惑を考えない愚かな行為に、いきどおりを感じます。
 仏教では他人に接する時の基本的態度を教えるため「四摂法(ししょうぼう)」という教えがあります。
 鎌倉時代の高僧、明恵上人(みょうえしょうにん)も『明恵上人遺訓(ゆいくん)』の中で、「ほんの少しの親切や温かな思いやりが、すなわち菩薩の布施、愛語、利行、同事の四摂法であり、菩薩行である」と説かれ、その実践をすすめています。


 布施 喜びを与えましょう。
 愛語 優しい言葉で語り合いましょう。
 利行 心のこもった助け合いをしましょう。
 同事 人の身になって尽くしましょう。


 「四摂法」とは、この四つをおさめた教えという意味があります。ですから愛語といえば
 人に希望と喜びを与える優しい言葉(布施)
 人を励ましちからづける優しい言葉(利行)
 人の身になって思いやる優しい言葉(同事)
 となりたいへん意味が深いのです。
 道元禅師は『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の中で、「愛語は愛心よりおこる。愛心は慈心を種子とせり、愛語よく廻天の力あることを学すべきなり」と申しております。つまり、「心に響くような愛語は、天帝の命令をも一礼するほどの力を持っているものだ」と言っているのです。
 慈愛のこころをもって、優しい言葉で語りかけるのも愛語であれば、時にはその人の行く末を思いやっての諌言(かんげん)や叱咤激励も立派な愛語なのです。
 ところで、生活が豊になり「やさしさ」が人間関係の主流になってきますと、子供への接し方として、どの様な時に叱り、どの様な時にほめたらよいのか分からない、あるいはどの様にして厳しさに耐える事を教えていったら良いのか分からない、という親が最近ふえております。私は子供に善悪の判断と共に正しい生き方を教えていくのも、親としての大切なつとめではないかと思っています。
 先日、静岡に住んでいらっしゃるSさんが、懐かしそうにこんな話をしてくれました。
 終戦後、小学校低学年だったSさんの家では、静岡の特産品である下駄の塗装業を細々と営んでいました。しかし、当時は収入が非常に不安定で、五人の子供を抱えた母親は安倍川の砂利振るいに雇われました。砂利振るいとは、採取業者から大きな振るいと振るいを転がす台を借り受け、河床の土砂をスコップで掘っては振るいにかけ小砂利を選別するという典型的な肉体労働でした。
 Sさんは学校の授業が終わると母恋しさに安倍川にとんで行き、広い河川敷から母親の姿を見つけると、その周りをまつわりつき、仕事の終わるのを待ちました。やがて、日が暮れて辺りの物が見えなくなるまで振るい続けた母親と、やっと家路を急ぐ日課でした。
 そんなある日、母親の隣で振るっていたおじさんの砂利山を、トラックが集めに来ました。川床の砂利ゆえ、業者もなめるようにはすくっていきません。トラックが走り去った後、Sさんは散乱したこの砂利をかき集めては小さな手ですくって、母親が集めていた砂利山へ投げ入れていました。するとそれを見ていた母親が言った言葉を、半世紀が過ぎた今でも鮮明に覚えているそうです。


 『ひとさまの物に手を出すんではない』


 Sさんは中学校を卒業すると、今の会社に就職し四十五年、無事定年を迎えることができました。「この会社一筋に勤めさせていただけたのも、あの時の母の言葉があったればこそです」としみじみ語ってくれました。
 Sさんの母親はこの時、理屈ではなく道理を教えたのです。「ひとさまの物に手を出すんではない」という、たった一言のおかげでSさんはその後の人生を踏み外すことがなかったのでした。これこそまさに愛語なのです。
 昨今、政界を揺るがすような贈収賄事件で、あたら有為な人材が失脚してゆくのを見るにつけ、残念でなりません。混迷する現代こそ「四摂法」そして愛語に学びたいものです。

木村文達

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