秋は喨々(りょうりょう)と・・・(2011/11)
ある夏の日、うるさいほど鳴いていた蝉が知らぬ間に聞こえなくなり、だいぶ静かになりました。と同時に、ひんやりとした秋風が私たちの体に伝わります。
耳を澄ませば、コオロギやスズムシが鳴き、回りの山々は次第に紅葉し、その彩りの美しさにしばし目を奪われてしまいます。
なんとなく、私たちの心はしみじみとした静かな気持ちになってゆくのがわかります。
それは切なくもあり、優しくもあり......。
「感傷の秋」とはよく言ったものです。
昔、中国の有名な詩人で蘇東坡(そとうば・1036~1101)がこのような詩を残してくれました。
渓声便ち是れ広長舌(けいせいすなわちこれこうちょうぜつ)
山色豈に清浄身に非ざらんや(さんしょくあにしょうじょうしんにあらざらんや)
現代風に言えば、「谷川のせせらぎは、お釈迦さまの親切な教え。山々の美しい姿は、お釈迦さまの姿。山や川だけでなくて、風も、そして風によって葉っぱが落ちる姿も、蝉が鳴くのも、スズムシが鳴くのも、私たちの目に入るもの、肌で感じる全てのものがお釈迦さまの教え」と言うのです。
確か、お釈迦さまの教えというのは、回りに目を向け、慈(いつく)しみや思いやりに気付かせて頂くための教えだったはずです。
それなのに、今の私たちはどうでしょう。目先のことだけにとらわれ、回りの物の美しさに目を向けたり、耳を傾けたり、肌で感じたりすることを忘れがちになってしまっています。
春は春の、秋は秋の美しい姿や、素晴らしい旋律があるはずです。それを、純粋に観じて慈しみの心をあらためて気付かせて頂くのです。
お寺の下の学校のグラウンドから、マーチが流れ、子供たちの歓声が響き渡ってきます。運動会が始まっているのでしょう。その音につられ、足を運んでみると、子供たちは行進し校庭にきれいに並んでいました。
私も子供たちに合わせて準備体操をした後、校舎の上にある、万国旗の向こうに映る、碧く高い秋の空を見上げながら、ゆっくりと深呼吸してみました。すると、今まで味わうことのない、清々しい気分になった自分がいたのです。そして、我が子といっしょに、子供の時に戻ったように運動会を楽しんでしまいました。
秋は喨々(りょうりょう)と空に鳴り 空は水色
鳥は飛び 魂いななき
清浄の水こころに流れ
こころ眼をあけ 童子(どうじ)となる (以下略)
高村光太郎「秋の祈」
「喨々と」は音が明るくほがらかに響きわたるということです。ここでは空の澄み切った様子を鋭く感じさせています。ほがらかな音を奏(かな)でる澄んだ秋空の下、光太郎の心も、空のごとく、みずのごとく、自らの心が清浄となり、純真無垢な子供の心になってゆくと詩(うた)っているというのです。光太郎にとって、自然界の様々な音や姿が自らの心を癒すためのお釈迦さまの教えになったのです。
そう思えば、私たちもまた、子供たちの歓声や、自然界にある全ての奏でる音が優しい教え(愛語)に感じられます。
耳を澄ませば、たくさんの音が聞こえてきます。しかし、私自身がざわついてる時は、決して耳に入りませんし、物の美しさも目に入りません。心が静かな気持ちになって始めて、日常の些細(ささい)なことを受け止め、何でもないことが優しい教え(愛語)に繋がります。
そして、その教えは自らの心を優しくさせ、言葉自体も優しくなれるし、しぐさひとつとっても優しさが滲(にじ)みでてくるような気さえします。
これこそが蘇東坡の言われた「清浄身」や、光太郎の言われた「童子となる」ことであり、 つまりはお釈迦さまのお姿そのものではないでしょうか。そして私たちもまた......。
さあ、秋本番です。この秋の美しさをどう観じるか。それは、私たちの心次第であるのです。
多田曹溪