法話の窓

心に残る言葉 「本当の愛語とは」(2011/12)

「打って打って打ちまくれ」


 まるで野球の応援か解説者の絶叫のようですが、これは臘八大接心(ろうはつおおぜっしん=十二月一日から八日までのまるまる一週間、不眠不休で坐禅を組み通す、専門道場最強の修行)での直日(じきじつ=禅堂の取締役)さんの言葉で、私達修行者にとっては身の毛もよだつような言葉でした。
 現代は妙に気を遣った過保護な言葉使いばかり、その中で家庭から大学まで育ってきた現代人の私にとって、道場に入った途端にこうした驚くような言葉があたりまえ、まさに晴天の霹靂(へきれき)、もっとすごい言葉では「お前らは人間じゃない」などがありました。本当に驚きそして戸惑いました。けれども後々こうした言葉が「愛語」と普通に言われている言葉の何倍何十倍の意味をもって、自分自身の人生にかかわってくるものだと知ることになったのですから不思議なものです。
 私が修行中、僧堂の閑栖(かんせい=隠居の身になった老僧)である、暮雲軒(ぼうんけん)老師のお世話をする"隠侍(いんじ)"という係りになった時のことです。
 ある日廊下を掃除していると老師が、「おーい、おーい」と呼びます。行ってみると老師がなにやら窓の外を指差しています。見ると野良猫が一匹山のほうに逃げていきます。ぼやっと立っていると、「馬鹿もん」と一喝、「そんなことだから何も見えんのじゃ」と老師、首をひねっていると、「猫を見ろ、お前は猫以下ということじゃ」と一言、また「この大馬鹿もんが」とどなりながら隠寮(いんりょう=老師の部屋)のほうに引き上げていかれました。
 鈍感な私はさっぱり分かりません、しかしこれからが大変、何も分からないままではすまないと、ああでもないこでもないと考えた挙句、次のようなことを考えつきました。
 野良猫は生きるために常に五感(見る、聞く、嗅(か)ぐ、味わう、触れるの五つの感覚)を働かせ、一目見ただけで、老人である老師を見たときは動かず。若者である私を見たときは、すばやく逃げ出したのです。そのように常に周りに気を配り、油断なく修行せよ。と言うことなのかと・・・・・・。後日そのことを老師に申し上げると「ふん」と鼻で笑われてしまいましたが、日常のなにげない、そうした事象の数々が、五感のすべてを研ぎ澄ますことのできる修行であると分からせてもらったのです。
 先に出てきた、「打って打って打ちまくれ」は警策(けいさく=励ましたり、気合を入れるための樫の棒)で打つときの言葉ですが、その後「鉄は熱いうちに打て」と言われてはじめて、その痛い痛い一発いっぱつが、なまくらな自分を打ち直し新しいしっかりとした自分を作るんだということが分かり。「お前らは人間じゃない」は、修行を重ねてはじめて人間らしい人間となれる、最初から一人前の人間だと思ったら大間違いだ。という風に、時間がたてば、その恐ろしい言葉も、自分達を育ててくれる滋養分なのだと受け取れるようになったのです。
 臨済禅師という臨済宗の名のもとになった中国の祖師も、黄檗(おうばく)禅師に痛打されてはじめて歴史に残る禅僧になられたし、山本玄峰(げんぽう)老師という名僧も道場でメッタメッタに打ち据えられてはじめて目が開けたと聞きます。
 甘いあんこにシロップをかけるような、「愛語?と過剰保護」がはやる現代社会、こういった説明のない厳しい禅の「本当の愛語」や「心からの痛打」という修行方法は誤解を生み、なかなか理解されないかも知れませんが、少なくとも私にとっては「甘いあんことシロップ」の親切よりは、はるかに自分のためであったと今では深く感謝しています。
 玄峰老師が次の言葉を残されています、「法に深切(しんせつ)・他人に親接(しんせつ)・自分に辛節(しんせつ)」と。まさにご苦労なされた老師ならではの言葉ではないでしょうか。
 その後、南禅寺の塩澤大定(しおざわだいじょう)管長さまから絡子(らくす=首からかける略袈裟)を頂いたのですが、その後ろにはまるで私のために書いて下さったかのように、墨痕(ぼっこん)鮮やかに「朝打三千・墓打八百」(ちょうださんぜん・ぼだはっぴゃく=打って打って打ちまくれの意味)としたためられていました。それを首にかけるたび臘八大接心の堂内の声がなつかしく心に響いてきます。

白井大然

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