法話の窓

坐禅の生活(2012/11)

 一つの心を心として築きあげるとき
 くらべるものなきまでに高めるとき
 私はいつも偉(おほ)きな安心を感じた
 心にゆるみをもち
 小さく譲り合ってゐるときの私は寂しかった
 私は高きに昇る心を養ひ始めた
 心を心として
 あくまでも自由にそだてることは
 いつも私を大きくした
              〈室生犀星 ー心ー〉



 「自らを調える」ことにぴったりの詩です。そして「いつも私を大きく」していく生活を実践していきたいものです。
 しかし今の時代、幼児虐待、テロ行為、少年犯罪など新聞に取り上げられない日はありません。物質的には非常に豊かになりましたが、精神的には非常に不安定な時代ともいえましょう。おのれの感情のなすままに、つまり、貪(むさぼ)り・怒り・愚かさに犯された我々の姿がそこにあります。
 仏教では貪り・怒り・愚かさのことを三毒といいます。その三毒に打ち勝つためには調えること、つまり坐禅が大切になってくるのです。一言で坐禅といいますが、六祖壇経(ろくそだんきょう)に「外(ほか)一切の善悪の境界(きょうがい)に於(お)いて心念(しんねん)起こらざるを名(なづ)けて坐となし、内(うち)自性(じしょう)を見て動ぜざるを名(なづ)けて禅となす」と説かれています。周囲のあらゆる出来事に左右されず、しっかりと自分を見失わないことが大切であるとの教えなのです。スワルという形をもって、つまり身体が坐ることによって、心をも坐らせていくことが大切なのです。
 毎日の生活の中で、様々な出来事に対してそれをしっかりと受け入れ、その中から本当の自分を見つけ、さらに見失わないで生きていくこと、坐禅の生活といえませんか。
 本『種まく子供たち』に加藤祐子さんの〈私の運命〉という闘病記が掲載されています。
 十三歳の時、加藤さんに急性骨髄性白血病の診断が下ります。周囲は、はじめのうちは告知しませんでしたが、本人はうすうす感じていたようでした。高校一年の再入院を機に、告知を受け、その後、彼氏や友人に打ち明けたり、悩みを聞いてもらったりして、自分自身を取り戻してゆくのです。
 「病気のことをいっしょに話したり、悩みを聞いてもらったりして、はじめてきちんと病気と向きあえた気がします。彼や友だちのおかげでがんばることができました。私は告知を受けてから自分の闘病記『私の運命』を書くことができました。自分の気持ちを見つめることができました」と。
 加藤さんにとって病気を受け入れることが「坐」であり、そんな自分をしっかりと見つめてゆくことが「禅」であったのではないでしょうか。加藤さんは調えることができたのです。
 さらに、「......だって私は十八歳です。私だって病気のことなんて気にしないで、思い切り青春したいです......。
 でも私は、人は一人で生きているのではなく、たくさんの人に生かされているんだと実感できるようになりました。これからも明るく前向きに生きようと思います。そうすればきっと何かがはじまって、なにかを見つけることができると思います。私を応援してくださるみなさま、本当にありがとうございます。」
と闘病記は続きます。
 「前向きに生きよう」「本当にありがとうございます」と、加藤さんは調った自分をもって、成すべきことを実践していこうとするのです。加藤さんのその姿は、感謝という喜びに満ちた姿なのです。
 思うようにならない境遇、不運な境遇を逆境。環境や経済的条件などに恵まれ、物事が具合よく進んでいる境遇を順境といい、相反するものです。しかし、調えること、坐禅によってそれらをすべて今の自分の境遇として、しっかりと受け止めていくことが大切なのです。そしてそこを出発点として、感謝という喜びが感じられる日暮らしこそが「坐禅の生活」と言えるのではないでしょうか。

和田牧生

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