成道会 〜鏡のような心(2012/11)
迷いとは 心が二つになること
悟りとは 心がひとつになること
私たちが、毎朝顔を映す鏡、この鏡にも色々な種類がありますが、どんな鏡でも、山に向ければその山を映し、川や湖に向ければそれをそのまま映しだします。しかし、それは鏡の前に映し出される物があるからであり、物がなければ映らないのです。また、鏡はその前に来た姿を素直に映し出します。自分の姿を映したとき他人の姿が映ることはないでしょう。これは、鏡が、自分の決まった顔というものを持たないからであり、鏡にとって、映った物それぞれがすべて自分の顔だからです。
このように、映ったすべての物を自分として受け入れ、自分と他人の区別なく、清らかで、大らかな鏡のような心を、人、一人ひとりが、持つことが大切なのです。
あなたの中にも、自分の姿を映す鏡をお持ちのはずです。
十二月八日は成道会
お釈迦さまは、シャカ族の王子の位を捨て出家されて以来、六年もの間厳しい修行をなされたのちの、十二月八日の明方、光り輝く曉の明星を見てお悟りをお開きになられました。これを成道(じょうどう)といいます。
この仏教誕生と言うべき日を記念して、毎歳十二月八日に、各寺院で厳修(ごんしゅう)される仏事を成道会(じょうどうえ)といいます。
真実の姿
お釈迦さまが、お悟りを開かれた時、「奇(き)ナル哉、奇(き)ナル哉、一切衆生悉(いっさいしゅじょうことごと)ク皆、如来(にょらい)ノ智慧徳相(ちえとくそう)ヲ具有(ぐゆう)ス。但ダ妄想執着(もうそうしゅうじゃく)アルヲ以テノ故ニ証得(しょうとく)セズ」といわれました。
奇ナル哉奇ナル哉とは、「不思議だ、不思議だ」という驚嘆の声であり、長い修行の末得られた法の喜びを表現したものです。では一体何が不思議なのでしょう。それは、すべてのものが真実の姿を備え、光り輝いているということであり、私たちの心の真実の姿は不生不滅の仏性で、智慧と慈悲の心であるということなのです。つまり、「お釈迦さまの仏性そのまま、私たちの仏性」なのです。
心のコントロールを
お釈迦さまは続けて、「但ダ妄想執着アルヲ云々」と言われ、人間は、煩悩(ぼんのう)や妄念(もうねん)の虜(とりこ)になっているから、仏性に気づかないのだと教えられました。お釈迦さまは、この煩悩や妄念という悪魔を退(しりぞ)け、仏性に目覚められたお方なのです。
では、私たちも、仏性に目覚めることが出来るのでしょうか。
よく、坐禅を組めば、修行をすれば、煩悩をなくし、悪魔を退けられると考えますが、煩悩という悪魔は、私たちが生きている限りなくなるものではありません。逆にいえば、煩悩があるから生きていると言えないこともないのです。
だから、煩悩を無理に滅ぼそうと間違った努力をすると、逆に苦しい負担(ふたん)がかかり、最後には負けてしまいます。
私たちは、煩悩をなくすることは出来ません。しかし、それを整理し、調整しながら使いこなすことは出来るのです。
人間の心は、常に二つの顔が現れたり隠れたりしているのではないでしょうか。一つは、自分にとって都合(つごう)の悪いことや、嫌(きら)いなことは徹底的(てっていてき)に排除(はいじょ)してしまい、「俺が・私は」といった自分中心的な我欲執着(がよくしゅうじゃく)の心。もう一つは、相手の立場になって相手を理解し、それを受け入れて自他ともに、一体となろうとする、我欲執着に捕らわれない心です。
私たちは、この自分中心的な、我欲執着に支配される煩悩に捕らわれることなく、常に相手の立場になってものごとを考え、行動すればよいのです。