残心のこころを学ぶ(2013/09)
釈尊は、調えられた生き方をするために、三つのものを信じ、それに帰依する事が大切であると説かれました。
それを「帰依三宝」すなわち「仏法僧の三宝に帰依せよ」と示されたのです。仏法僧の三つを宝物のように大切にして生きていく。即ちこの三つのものを、無条件に底抜けに信じていくというのです。
仏とは、仏陀(ブッダ)の略。つまり真理の体得者であり、転じて偉大な師、優れた指導者と理解したいのです。
法とは、仏の教え、真理をいいます。
僧というと、一般にお坊さんと理解されていますが、本来は、法を求める人々の集いをいいます。つまり学びの友といえましょう。
このように、よき師、よき法(教え)、よき友に出会い、かつ敬うことが肝要であり、その事が私たちの人生に大きな意味を与えてくれるものになると教えるのです。
私は、禅の修行を名古屋の徳源寺という修行道場でいたしました。修行道場とは、師家という指導者のもとへ全国から僧が集まり、お互いに切磋琢磨し、禅の境涯を体得するために精進を重ねる場所です。
私が修行をして、自坊(自分が生まれ育った寺)へ帰ってきた、ある年の事です。
お盆の棚経を、同夏(どうげ:修行の同期生)であるZさんが手伝いに来てくれました。そして棚経を終え、最寄り駅まで車で送って行った時の事でした。先程まではお互いに冗談を言い合っていたのですが、Zさんは車から降りると深々と私に頭を下げて、別れの挨拶をしたのです。そればかりか、車を走らせたバックミラーには、私の車が消えるまでその場から立ち去ろうともしないZさんの姿がありました。
そういえば、修行の師である徳源寺の江松軒(こうしょうけん)老大師は、お客様をお見送りする時には、必ず車が曲がり角を過ぎるまで玄関先で門送されていました。そして、その方の姿が見えなくなると、最後の一礼をし、隠寮(いんりょう:老大師のお部屋)へ戻られるのです。
きっとZさんも修行が長いので、老大師の後ろ姿を日々拝見し、身のこなしが自然と具わったのだと思います。
この事は私にとって、よき教えとなり、人にはそのように接するべきだ、と改めて学ばさせていただいた出来事でした。
時には、学びの友がよき師となり、よき教えを示していただける事もあるのです。
『残心』という言葉があります。辞書によりますと、〔心残り・未練〕と思い切りの悪い心情を表わします。他には、武道にて度々用います、〔心構え・緊張の持続〕と言った心情を表わしますが、また、細心、綿密の意味合いもあります。
それは、他者との別れのときの、温かい豊かな心情に通じるものです。
騒々しい日常生活をしている私たちにあっては、互いに心を残しあう言動、後味のよさを与えあい、出会いや触れ合いを大切にして「さようなら」を告げた後も、なお心中に脈動する残心がほしいものです。
「一期一会」という言葉があります。「今」の出会いは一回きりということです。一生にただ一度の出会いと「今」を受け取るならば、何事を行うにも、心を込めて一生懸命に行えるはずです。
お互いに信じあい、お互いに支えあって、お互いを拝みあって行動する事が、殺伐とした今の時代に、灯を投げかける道だと思います。
〜月刊誌「花園」より
澤田慈明