道心の中に衣食あり 衣食の中に道心なし(2014/01)
これは天台宗伝教大師最澄の『伝述一心戒文(でんじゅついっしんかいもん)』の中のお言葉であります。
道心とは、仏教を学び実践する心をいい、衣食とは、衣食住の生活環境のことです。
道を求めて努力を重ねる向上心があれば、その目的を達成するのに必要な衣食住は、十分とはいえないまでも、おのずとついてくる、一方いくら生活に恵まれていても、その生活の中からは、むしろ安逸に流されて、道を求め、自分を高めようとする心は起きてこないということです。
現在の私たちの生活は、物質的に大変豊かになりました。不景気、不景気といわれながら、巷には物が溢れています。にもかかわらず不安感が漂っています。政治、経済、教育、医療、治安などに対する様々な不信が渦巻いています。
さらに、科学技術の進歩は多くの利便性を私たちにもたらした反面、人々から想像力を奪い、人を思いやる心を著しく低下させてしまいました。不安に駆られ、自己中心で感謝の心を失った人間が増え、思い通りにならないとその不満を、他人への怨みに転化させます。 次々と起きる凶悪な事件の背景には、人格を養う教育が軽視されてきたことがあるからではないしょうか。
自分の中に確固たる「信」をもたないことが、現代不安の大きな要因の一つに上げられます。物に囲まれて便利に生きることが、本当に人間らしく生きることなのか、考えなおすときにきています。
宗祖臨済禅師が「病、不自信の処に在り」といわれたのも、正にこのことでしょう。
仏教は、いうまでもなく三宝に帰依し、三宝を実現する教えであります。三宝とは、仏(覚者)、法(真理とその教え)、僧(その教えを学び、行ずる人々とその和合の集団)のことで、この三つの宝といわれる理由は、世間に得がたく、この上なく清らかで、勝れており、不思議な力をもち、時代や世界をこえて、かけがえのない価値をもっているからであります。
この三宝に帰依することこそ、真実に生きる出発点であり、自分の本当の姿を知る第一歩なのです。又、この帰依を形に表わしたものが合掌であります。
合掌とは、仏と一体になることであり、自分の内にひそむ仏性(誰でも仏になれる性質)を拝むことであり、私たちが時間的にも空間的にも、いろいろなものの恩恵によって「生かされている」ことへの感謝の祈りでもあります。
所詮、人間は決して一人では生きられない弱い存在です。だからこそ「支えあい」が大切であり必要です。この「支えあい」の心のあり方を説いた教えに「四無量心」があります。四無量心とは「慈・悲・喜・捨」の四つの心を特定の人に限らず、だれにでも、際限なくはたらかせることです。即ち
慈無量心―友愛の心、慈しみの心をかぎりなくはたらかせること。
悲無量心―ひとに対する同情とおもいやりの心をかぎりなくはたらかせること。
喜無量心―ひとをしあわせにすることを喜び、また、人の喜びを自分の喜びとする、この喜ぶ心を限りなくはたらかせること。
捨無量心―執われを捨て、分けへだてなく接する心、それを限りなくはたらかせること。
この四つの心を共にあゆむ人びとにふりむけることによって、和合の世界がもたらされるのです。仏の教えは、私たち人間の生きる杖であり、支えであります。
仏の教えを学び、仏の教えに生きる一人になり、同じ道を歩む人々と一緒になって、共に歩む仏国土の実現をめざしたいものです。
〜月刊誌「花園」より
姫野晴道