法話の窓

『いただきます』と 『ごちそうさま』(2014/03)

 今から十年ほど前のことです。一才だった二番目の娘がある時、おなかの病気になって、お医者さんから食べ物に制限を受けてしまいました。その制限の中に長女の大好物のスパゲティーがはいっていました。
 妹がお医者さんから止められてるんだからと言い聞かされて、当時三歳だった長女は、好きなスパゲティーを「お母ちゃん作って!」とせがむことも無くじっと我慢していました。しかし二ヶ月経っても、まだ『スパゲティー解禁』にはなりません。
 長女がよく辛抱しているのが分かっていたので、外出した時にいっぺん食堂で食べさせてやろうと思い、連れていきました。お店へ入ると娘は迷わずスパゲティーを注文し、間もなくそれが目の前に運ばれて来ました。
 その瞬間、娘は目を輝かせて大声で言ったのです。


 「わあーおいしそう、いっただっきまーす」


その声がお店じゅうに響き渡って、いっぺんにお店の人や他のお客さんたちの笑顔を誘い、注目を集めることになりました。
 それからは一口食べるごとに「おいしいね、おいしいね」を繰り返し、年齢にも似合わず一人前を全部平らげてしまいました。そして食べ終わると、またひときわ大きな声で「あーおいしかった、ごちそうさま!」その声がまた響き渡り、まわりの人達は思わず大爆笑、お店の人は「そう言って貰えておばちゃんもうれしいわ!」と言ってくれました。


 『いただきます』と『ごちそうさま』に関する私の一番の思い出です。
 食事をするということは、動物や魚、そして野菜や果物の命を『いただく』大事な儀式です。動物や魚に『命』があることはすぐわかります。しかし、野菜や果物には命がない、などと錯覚している人がいますが、そうではありません。野菜や果物にも勿論いのちがあります。命があるからこそ、成長し、葉を茂らせたり実を付けたりするのです。
 そういうすべての命を『いただき』ながら我々自身の命が支えられ、生かされているのです。いわば私たちのこの体は『いのちのかたまり』と言えるでしょう。『いのちのかたまり』であるこの体をどう使えば良いか、私たちにはそれを考える使命があると思います。『使命』という字は『いのちを使う』という字を書きますよね......。


 『ごちそうさま』は漢字では『ご馳走様』です。『馳』も『走』も食べる物を準備する為に忙しく動き回ることを意味します。それらの文字に『様』をつけて、食事を終えた人が感謝の気持ちを表す言葉、それが『ごちそうさま」です。
 両手を合わせて合掌して、みんなが、食事の前に「いただきます」、食事の後に「ごちそうさま(でした)」を忘れずに言うようにしてもらいたいものですが、ちょっと気になっていることがあります。
 誰でも『いただきます』と『ごちそうさま』はワン・セットだと思っています。食事の前に「いただきます」と言ったなら、食事が終われば必ず「ごちそうさま」をいうに違いないと考えがちですが、本当にそうでしょうか。


 TVドラマや何かで出演者が食事をとるシーンがありますと、『いただきます』は時々見ますが、『ごちそうさま』はまず見ることがありません。それにならっているのかどうか、普段の我々の生活でも、本来ワン・セットであるはずの『いただきます』と『ごちそうさま』との間に、大きな差があるように思えてなりません。忘すれられがちの「ごちそうさま」ではありますが、決して忘れるわけにはゆきません。


 私たちの『いのち」を支えるために、動物や魚や野菜や果物が、いのちを提供してくれているのだ、ということを思いださせてくれる「いただきます」と、私たちの食事を準備するための、様々なご苦労に対する感謝を表す「ごちそうさま」、二つで一組です。そしてそれらはどちらも両手を合わせて合掌した姿で言うのを忘れないようにしましょう。

 

   〜月刊誌「花園」より

豊岳澄明

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