時間は、いのち
年をとるにつけ時間の経つのを速く感じるようになります。子どもの頃は、お正月やお盆、夏休みなど、まだかまだかと待っていましたが、最近は、もう正月が来るのかと思うこの頃です。
この時期になると喪中欠礼のはがきが届きます。今まで親しくしていた方が鬼籍に入られ、もう二度と会うことができないのかと大変さびしくなります。しかし、誰もがそうなることは分かっていながら、つい目先のことに追われ日々を送っているのです。
この世に自分で希望して生まれてくることはできません。気が付いた時には、すでに生まれていたのです。そうして、自分が男であるとか、女であるとかそういうことも全く自分の意思は入っていないのです。これを宿命といいましょうか。
しかし、成長するにつれて、学校や仕事、また配偶者など自分自身で選んで決めることができるものも多くなります。運命とは命を運ぶと書きますが、自分のいのちをどういう方向へ運んでいくのかということが、人生ではないでしょうか。
生まれてから年を経ていく。その中に学校、仕事、結婚などの生きている上の出来事を織り交ぜながら人生を完成させていくのです。
『法句経』というお経の中に、「頭髪が白くなったからとて長老なのではない。ただ年をとっただけならば"空しく老いぼれた人"と言われる」(『真理のことば』中村元訳・岩波文庫)とあります。つまり大事なことは、どれだけ長生きするかではなくどういう生き方をしたかです。
杉山平一さんに『生』という詩があります。
ものをとりに部屋へ入って
何をとりにきたか忘れて
もどることがある
もどる途中でハタと
思い出すことがあるが
そのときはすばらしい
身体がさきにこの世へ出てきてしまったのである
その用事は何であったのか
いつの日か思い当たるときのある人は
幸せである
思い出せぬマゝ
僕はすごすごとあの世へもどる
今一度、自分がこの世に生まれ出て、生きている、それは何をするためなのか。そして、それを実現するためには「どういう生き方をするのか」を真剣に考え生きていかなければなりません。ただ何となくという日々を送っていたのでは、老いぼれと呼ばれるだけでしょう。
フランクリンは、「人生を大切に思うといわれるのか。それならば、時間をむだ遣いなさらぬがよろしい。時間こそ、人生を形作る材料なのだから」と書いています。時間とは即「いのち」のことです。
今日も、今年も大したこともなく終わったということでなく、毎日が、今が、充実している生き方が大切です。すでによく言われるように、時間の後戻りは決してありません。自分の人生の持ち時間は刻一刻と短くなっているのです。
来年こそはと思っている人は、また「来年こそは」という年になります。もうこの日しかないという気持ちで時間の無駄使いを止め、与えられている時間(与生)を使い切っていきましょう。生きているということは、ただ単に呼吸をしている、心臓が動いているということではありません。あなたの"いのち"が光り輝いているかどうかということです。
池上寛道