無事なる人(2016/1)
新春のお慶びを申し上げます。
新たな年を迎え「今年こそは」と心機一転。見慣れた庭の木々に差す陽の光が、いつになくまぶしく伺えるのはお正月だからでしょうか。この一年の無事なる日々を願うばかりです。
上田敏(うえだびん)の訳詩「春の朝(はるのあした)」には「事も無し」の安堵感が綴られています。彼は師匠にあたる小泉八雲から「一万人に一人の英語力」とも太鼓判を押された明治の文学者、翻訳家です。「春の朝」は英国ヴィクトリア朝の詩人ロバート・ブラウニングの詩を訳しました。
"春の朝"
時は春、
日は朝(あした)、
朝(あした)は七時、
片岡に露みちて、
揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
蝸牛(かたつむり)枝に這(は)い、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。
春の朝、小さな丘にあますところなくしっとりと露は濡らす。空高くには点となった雲雀がその存在感を誇示するかのようにしきりに羽ばたきかん高くさえずる。目前では蝸牛が枝上をゆっくりと慎重に進みつつある。そうした森羅万象の営みを空からは神さまが見守るようにご覧になっておられる。その安堵感を上田敏は「事も無し」と表現しました。
臨済宗の宗祖、臨済義玄禅師は「ほとけ」を人格化した中国唐代の禅の祖師です。ほとけと耳にすれば近寄りがたい神々しさをイメージしてしまい、お釈迦さまの真意から益々遠ざかり分別心に迷う弟子たちに向けて禅師は「仏に逢(お)うては仏を殺し」とまで一喝して目を覚まさせようとされています。
あるとき禅師が弟子たちに「無事是貴人(ぶじこれきにん)」と示されました。無事なる人が貴い人だ。心に執着妄想(しゅうぢゃくもうぞう)を形造ってはならん。そもそも心に「形は無い」。「形無い」が故に十方に通貫し目前にあらわれる。天地の営みも「形無い心地」より生まれ出でる、との戒めの言葉が『臨済録』にみられます。
禅師の言われた無事とは、ことなかれのことではなく、森羅万象のいちいちの営みを鏡のように何ものもダイレクトに映し出す心地を讃えた言葉です。ヒバリが空高くに羽ばたきさえずるその声が耳に届き、蝸牛が静かにゆっくりと這うその姿を目に映せる心地が無事なるほとけなのです。こうした天地一杯の営みに神さまのご加護をみた上田敏でしが、彼自身がそれらの営みを見逃さず聞き逃さなかったことが何よりの安堵感に繋がったはずです。
この一年を無事なるほとけに近くあるためには、自分の都合で生じた分別心や執着妄想のしこりを日々の仏道で繰り返しほどいていきたいと思います。こうしてしこりがほどけた「形無い心地」には、途切れなく展開される天地の営みがいつも新鮮に鮮明に映え、それは感動、歓び、驚きのある日々へと繋げてくれようことと思うからです。
足立宜了