マル住職
新年度が始まってひと月が経ち、新しい生活にすでに慣れて来た方もいらっしゃれば、まだまだご苦労されている方もいらっしゃることと思います。私事ですが、この時期になると修行道場へ入門した時の緊張した日々を過ごし、初めて公案を与えられたことを思い出します。私が修行した道場では無門関の第1則「趙州狗子」が最初の公案でありました。犬に仏性が有るのか無いのかを問われた趙州禅師が「無」と答えられた有名な公案であります。
答えはさておき、犬を飼っているお寺は多くあります。私が修行した道場にも紀州犬の子犬がやって来ました。"マル"と名付けられたその犬は、修行僧に癒しを与えてくれる存在でありましたが、道場の生活の中では構ってあげる時間が少なく窮屈な思いをしていたのでしょう、成長すると夜な夜な道場を抜け出すことがありました。3年程道場で暮らしたマルですが、このまま道場にいても不憫だということで、縁有って山口県のお寺へといく事になりました。
そのお寺で住職という肩書をもらったマルは一躍人気者として脚光を浴びる事になりました。テレビや雑誌などで多数紹介され"マル住職"に会うためお寺にお参りに来られる方もおられるようです。人気者になったからといって今までと変わらず人に愛想を振る事はありません。共に過ごしたマルが人気者として多くの人に受け入れられている事に嬉しい気持ちになる反面、正直、住職とは少しやりすぎではないかとも思いました。
一昨年、そのお寺での晋山式があり、お手伝いに伺うと何とマルにも袈裟が用意されていました。聞けば、檀家の方から、新住職の袈裟と同じ様に寄進されたものでありました。当日、お寺の本堂までの行列に新住職の後に続いて真新しい袈裟を着けて立派にマルが歩く姿に、寄進された檀家さんも涙を流し喜ばれているのを拝見。地域の方々に"マル住職"として安らぎを与え、お寺に調和しているのを目の当たりにし、私の「やりすぎでは......」という思いは、「犬を住職にするなんて不謹慎では」という固定観念に捉われているという事を気付かせてくれました。
趙州禅師の答えられた「無」は犬に仏性が有るのか無いのかと問う僧の分別心を断ち切る「無」であります。そのため禅門では仮名の「ムー」に置き換えよともいわれます。こためでなければという思いが強すぎると、その思いから外れてしまった時に受け入れることができず、悩みや苦しみとなります。四角四面で物事を見る事も時に必要ではありますが、有無・善悪といった今までの分別心や執着心を払うことで、悩みや苦しみから円満な生き方へと変わっていくのではないでしょうか。こんなはずではなかった、なぜ自分ばかりと思い悩む時「ムー」と一呼吸してみませんか。
華山泰玄