法話の窓

亡き人はどこに

 

 お盆が近づくと、ひとしお、亡き人のことがあれこれと偲ばれます。故人の在りし日の思い出、共に過ごした楽しかった思い出に、懐かしさや寂しさを感じられる方も多いのではないでしょうか。
 亡き人を祀る心として、「祀ること在すが如く」という言葉があります。「亡き人が、そこにおいでになるように」との心です。

 まだ、私が修行時代のことです。厳しい修行の日々の中にも、弁事といって、ささやかながら月に一回程度、外出許可をいただける日がありました。
 衣を着たままの外出ですから、行くところも限られております。そんなとき、必ずお邪魔する信者さんのお宅がありました。
 その家のご主人は八十歳を超えたおじいさんでしたが、奥さんを病気で亡くされて十年が経ちます。私がお邪魔すると、話相手が来てくれてうれしいと喜んでくれ、いつもお茶を出してくださいました。何回かお宅にお邪魔させていただいたときに気づいたのですが、私とその方と二人なのに、なぜかいつも湯呑みがひとつ多いのです。
 「いよいよこのおじいさんも、一人暮らしが長いせいか、ボケが始まったのかなぁ......」と思いつつも、「湯呑み、ひとつ多いけど......」と、申し上げました。
 ご主人はすべてのお茶を注ぎ終わったあと、何も言わずに、照れくさそうな顔をして、「そっと」仏壇にお供えされたのです。ボケたなんてとんでもない事でした。一言申し上げた私のほうが恥ずかしくなりました。ご主人はいつもそうされていたのでしょう。
 「祀ること在すが如く」。亡くなった方が今ここにおられるつもりで、お供えをする。生きていた時と同じように「あれもしてあげよう」「こうすれば喜んでくれる」そういうお気持ちで接することが供養の心でもあります。亡き人はいつも私と共にあって、私と離れることはありません。

  みほとけは どこにおわすと 尋ぬるに 尋ぬる人の 胸のあたりに(古歌)

 胸に手をあててみましょう。亡き人は、私たちの胸の中、心の中、亡き人を偲ぶ、その思いを馳せるところにおいでになるのです。

雲井栄成

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