根なし草の心(2017/10)
白隠禅師、晩年の作に『草取り唄』があります。七・五調の形式で作られており、煩悩を草に置き換え、煩悩の草を根っ子から取りのぞき、本来の心一つで生きていくことの大切さを口当たりのいい唄でもって説いているものです。
草を取るなら、根をよく取りやれ
またと意根をはやしやるな
意根なきよに根をきりおけば
水に花さく根なし草
『草取り唄』の冒頭です。私たちの修行道場でも除草の時は、口酸っぱく根っ子から取ることを指導されます。私たちの心も同じく、煩悩の草を取りやるにも、表面だけを取り繕っても駄目で根っ子が肝心です。またその「意根」を「遺恨」と言い変えれば、「恨み、妬み、憎しみ」を育てるなとも聞こえます。
例えば、自分にとって忌み嫌う人と決めつけた人の言動行動は、全て「何か裏がある」と疑い、嫉妬し疎ましく思ってしまいます。それは自分の心根が「そういう人間だ」と決めつけている、わがままな心が原因です。
反対に根なし草とは、地中に根を張らず、水に浮いている草で「浮き草」の事を指します。一ヶ所に生活の場を定めないことを「浮き草暮らし」と言いますが、一般的には定住や根を下す生活を理想とします。しかし、白隠禅師の根っ子とは「煩悩」つまり自分勝手な思い込みや恨みなどに囚われている状態を言い表しています。ですから大事なのは、「意恨なきよに根をきりおけば 水に花さく根なし草」とあるように、物事に執着するわがままな心である根っ子を取りやり、根なし草のようにとどまらない心で日々を送ることの重要性を説いています。
福井の幕末の歌人に橘曙覧がいます。有名なエピソードとして、親交のあった福井藩主松平春嶽公より仕官の命令が下った時も、地位や名声を選ばず、曙覧は清貧の中で自分の心に忠実に生きる自由自在の暮らしを選び断わりました。また禅の教えに深く傾倒する曙覧の歌には、自然とその教えが反映されているようにも感じます。
たのしみは 庭にうゑたる春秋の 花のさかりにあへる時々 (歌集『独楽吟』)
何でもない庭に咲く季節の草花が咲き誇る姿に出会えた時の喜びをあるがままに歌っています。歌集『独楽吟』の特徴は全て「たのしみは」から始まる短歌のみで、日常生活のほんの些細な事さえも心から喜ぶ曙覧の姿が歌から感じ取ることができます。
また曙覧は「うそいうな、ものほしがるな、からだだわるな」(「だわるな」は福井の方言でだらけるなの意)と子供に遺訓としてこの言葉を伝えています。つまり、どれだけ貧しかろうが心の根っ子は常に「素直」であれということです。貧しければ貧しい、お金が無ければお金が無い、それらを恥と思う心が恥であると読み取れます。「地位」「名声」といった私たちの生活に優劣をつける心、つまり執着という根を取りやり、どんな環境や状況であろうと「根なし草の心」の暮らしを曙覧は生涯大切にしていたと言えます。
曙覧は歌い続けます。
たのしみは 草のいほりの筵敷き ひとりこころを静めをるとき (前掲)
花咲くことを我が事のように喜べるのも、どんな処も安住の地に成り得るのか問題はいつでも私自身の根っ子に有るのです。
髙橋玄峰