涅槃会に想う
暦の上では立春といいつつも、まだまだ春は遠く、冷え込みの厳しい中、お寺では正月の後片づけを済ませた途端、涅槃会の準備に取り掛かります。
この時季の2月15日、お釈迦さまは80歳で亡くなられました。それにちなんで、涅槃図を飾ります。
全ての生き物を慈しんだお釈迦さまは、クシナガラの地で頭を北に向け死を迎えていく。弟子の阿難尊者を始め菩薩や信者、動物や虫たちが嘆き悲しむ姿、そして、悲しみのあまり沙羅双樹の木が2月というのに花を咲かせ、やがて枯れていく様子が描かれています。そして、それを見ようとたくさんの方々がお寺にお参りに来られるのです。
座る余地まだ涅槃図の中にあり 平畑静塔
この絵を私たちは、第三者として観るのではなく、その絵の中に座って、共に悲しんで慈しみを感じている。絵の中の世界と一つになって共にお釈迦さま入滅を偲ぶと詩います。
かれこれ20年近く前に、ある講習会で故松原哲明師にその当時の様子を話していただきました。
「お釈迦さまは頭を北に向け、顔を西に向け何を見て亡くなったんだろうね。ほんとはどこに行きたかったのか。お釈迦さまが見ていた80キロ先には、母である摩耶夫人の生まれたラーマグラーマ村があったんだ。母の故郷に行きたかったんだ。日数にしてあと3日でした。あと3日、頑張れば最後の旅は完成されていました。でも行けなかった。お釈迦様もやはり私たちと一緒で人間だったんだなと思います」と。
それを聞いた時、私は背筋が凍りつき言葉にならない感動を覚えました。日頃、お釈迦さまのことを本で読んだりしてある程度のことは理解していたのですが、心の中に人間的な思いは感じ取れなかったからです。そんな私に、故松原師は人間味のある姿を教えてくれた気がします。
ですが、この母の故郷に行きたかったということは完全に証明されてはいません。「そんなことあるわけない。お悟りを開いて何十年も旅をし続けたお釈迦さまは、やはり最後の旅も、そんなおセンチ(感傷的)な思いはなかった。死ぬまで求道の旅を続けたのだ」と否定的な言葉で返した方もいました。
私はどちらが正しいのかわかりません。でも、私は全ての物に慈しみを注いだお釈迦さまは最後の最後に母に慈しみを注いだと信じたいのです。
以来、松原師とは、インド、中国、各地での研修に同行させて頂きました。
その都度、「あなたたちは誰について行くんですか? 私はお坊さんだからお釈迦さまについて行くんです」と言われました。
私たち僧侶はどうしても、葬儀や法事といった法務を中心に生活してしまいます。それはそれで構いません。ですが、お釈迦さまの思いや生き様を心の中に持ち続けながら法務を勤めていかなければならないな、といつもこの涅槃の時期に感じるのです。
そんな思いで涅槃図を眺めていると、まだまだその絵の中には私も座る場所がありました。
多田曹渓