法話の窓

歩歩是道場(2018/1)

 大学生時分、茶道を学んでいた頃、初釜の茶会に伺うとよく見かけた禅語に「歩歩是道場」というものがありました。
 1月の床の間にはこの禅語の掛軸を掛け、ひと時向かい合います。
 妙心寺派布教師であられる故松原泰道師の「禅語百選」にはこの言葉の解説として「私たちの一歩一歩、言動のひとつひとつがみな修行であり、真理のど真ん中で生活している(ことに気づくこと)」「今日、ただ今、ここに一所懸命になること」と、この禅語を味わうためのヒントを記して下さっています。

 先代住職が京都の大本山妙心寺で修行したからという理由で、大学卒業後の4月に妙心僧堂に入門を決意し、少なくとも5年、いや、道を究めるまでは仙台へは帰らないと、檀家総代さんらの前で啖呵を切ったものの、現住職の体調不良と法務過多によりわずか3年半で修行を一旦切り上げる事となり、「ただでは帰れない(涙目)」と思っていた折、
「そうだ、歩いて帰ろう」と、かの有名なキャッチコピーみたいなものが浮かび、これなら総代さん達も許してくれるだろうという安易な思いから、わずかな着替えと、腰に草鞋を5足程むすんで、仙台への一歩を踏みだしました。
 京都駅すぐの京都タワーが見えているうちから「やっぱりやめて新幹線で帰ろう」と、立ち止まって休んではそう思いました。そのたびに、檀家さんの姿やお寺で待つ住職や祖母、道場の師匠や同輩たちの姿などが脳裏に浮かび「情けないまま帰れない。頑張ろう」とまた一歩。
 道中、駅のところを歩くたび「ここでやめて電車で新幹線のある駅まで」と、駅のホームで休みながら「嫌でもここまで来たから頑張ろう」とまた一歩。
 事あるごとに「やめよう、いや頑張ろう」を繰り返しながら、ときに道を間違えたり、立ち寄ったりしたお寺さん等の助けを「存分に」お借りしながらも歩く事をやめず、気が付けば、歩き始めて43日目、どうにか仙台へと辿りついたのであります。

 今、この歩みのことを思い出すと、辛かったこと苦しかったこと迷ったことがまず真っ先に出てきますが、その時の弱い心も情けない心も、いまの一歩を見つめるための、ある意味丁度いいひと呼吸になっていたと感じます。
 一歩一歩も、一呼吸一呼吸も、これまでの沢山のご縁への感謝と、これからの目標に向かって行こうという思いを強くする、いわば自分を見つめる大事な瞬間だったと感じます。

 道場とは「修行の場」という意味もありますが、お釈迦様がお悟りを開かれた菩提樹下の座の事をも指します。
 一歩、一呼吸に自分を見つめる瞬間は、お釈迦様が静かに坐られた菩提樹の下と変わらぬ境地と言えましょう。
 皆様の1年の無事息災と、これからの歩みが安らかなものとなります事を祈り、また自分自身も今年の目標に向けてしっかりと歩めるように、この「歩歩是道場」という禅語を座右として参りたいと存じます。

星 大晃

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