法話の窓

048 苦しみから逃れる方法

 禅宗の古い資料を見ていると、昔の和尚さんは、悟りを開いて、まるで超能力でも身につけたのではないかと思わせるような表現がいたるところにあります。

 "心頭を滅却すれば、火も自ずから涼し"(頭の中から雑念を消し去れば火だって涼しい)...ほんとかな。

 この話は、戦国時代、武田信玄公に禅の教えを説いていた山梨県、恵林寺の快川和尚(かいせんおしょう)のエピソードです。

 信玄公が亡くなって、武田家が滅亡にいたる時、武田軍を追いかけて、織田信長の軍勢が恵林寺へ攻め込んできます。追いつめられた寺の僧たちは、快川和尚ともども寺の山門の二階へ逃げます。その山門に織田軍が火をかけたものですから、快川和尚たちは逃げ場を失ってしまいました。

 快川和尚はそれでも平然として「火も自ずから涼し...」と、唱えて弟子の僧ともども亡くなったのでした。

 このような時、空を飛んだり、水の中を無呼吸で泳げるような超能力が身に付いていれば難なくクリアーというところですが、禅の修行は超能力等とは全く関係のないことです。

 禅の目ざすところは、物事をありのままに見つめて自分の置かれている立場、自分の能力で素直に、当たり前ともいえる行動をとることです。

 人生、場合によっては、どうしてもさけることのできない難問題にぶつかってしまう場合があります。逃れることのないできない苦しみなら、それはそれと認めて、最後には、それと遊んでやれという気持ちになれば、どんな苦しみも乗り越えることができるというわけです。

 良寛さんも、
 災難に遭(あ)う時節には
 災難に遭うがよく候
 つまり災難にあった時は、ジタバタしないで災難に直面することが一番大切なことだと言っています。

 災難に直面する、苦しみと遊ぶということは、どうにもならない困った災難を前にして、「ああしていれば、こうならなかった。」等と言っても始まらないし、「誰か助けてくれないか。」と言っても無益な場合もあるだろう。そうなればここは一発、腹をくくって、最後の時間を自分で生き抜かねばならなくなります。

 結局、あるがままに事実を受けとって、"今"を大切にして生きること・・・単純なことのようにも見えますが、これが禅のめざす苦しみから逃れる方法であると、私は思っています。

河野弘昭

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