090 雨の日の花
「雨の日の花」
雨がふっている
花は咲いている
花の上に落ちる雨
悲しんでいるのは
雨だった
花をよけて
雨はふることができない
(高田敏子)
六月下旬、そろそろ境内の草刈や剪定のことを考え始めるころ、私は決まってホームセンターへと足を運びます。一昨年のこと、蜂に刺されてからというもの、少し過敏になりすぎかとは思いますが、蜂対策をするためです。最近は強力ジェット噴射式の殺虫剤もいろいろあって、去年は五メートル噴射できるものを購入し、今年は十メートルを噴射できるものを購入してしまいました。
求めていたものが手に入ると、すぐに使ってみたくなります。草刈の間、獲物を探している獣の如く、必要以上に周りに目を向け、遠いところに飛んでいる蜂を見つけては噴射する。手応えあり!と、ついつい喜んでしまうのです。
でも、これは誰がどう見ても無駄な殺生です。ずっと遠くで、ただ花の蜜を吸っているだけの蜂を、わざわざこちらから攻撃する必要性はありません。
庭師のおじさんたちは、無駄な殺生をしなくてすむようにと、まずは自分を防御することを考えるそうです。なるほど、顔までも覆いつくす網のついた麦わら帽子に、暑い最中にもかかわらず厚手の上下の服、地下足袋と、完璧な出で立ちです。暑くてたいへんだろうと思うのですが、ここまで防御対策をすれば、蜂のことはまったく気にならないと言われますし、もちろん強力ジェット噴射式殺虫剤も利用されていません。
この慎ましい謙虚な姿が、本来の人間の姿ではないかと思いました。ただでさえ私たちは、自分たちの命をつなぐために、思い通りに他の命を育くみ、また奪い、それを調理して口にしているわけですから、よけいにまわりに気を配り、共生に務めなくてはならないと思います。冒頭の高田敏子さんの詩は、つくづくそれを感じさせてくれました。可愛らしい花を避けて降ることのできない雨の悲しみ。でもこれだけでは終わりません。この詩には更に続きがあります。
花は咲いている
雨の心をいたわり 受け止めて
花びらに 雨の心を光らせて
花は咲いている。
こちらの気持ちひとつで、相手の命も救われるという世界が仏さまの教えです。対面している相手と自分とが、お互いに思いやり、心がひとつになっていくこと。この気持ちを忘れてはならないと思います。
岩淺宏観