法話の窓

登竜門 ―龍吟ずれば雲起こる―

 この季節、気持ち良さそうに鯉のぼりが泳いでいる姿を目にします。昔ほど大きな鯉のぼりは見かけなくなったような気がしますが、庭先やベランダなどに掲げられている光景に子の健やかな成長を願う節句としてだけでなく、家族団らんの温もりが、優しい陽射しと共に心を温めてくれます。
 そんな光景に、つい口ずさむ童謡「こいのぼり」ですが、この曲が生まれる以前は「鯉のぼり」という別の歌が大正の頃まで親しまれていたようです。

  百瀬の滝を登りなば 忽ち竜になりぬべき

と、中国の登竜門の伝説になぞらえた歌詞となっています。
 登竜門とは、『後漢書』に、「中国の黄河上流にある竜門という激流を登った鯉は竜になる」と伝わります。また竜は仏法の守護神でもあり、天より仏法の雨を降らせ、大地を雨の恵みで潤すように、広く私たちを救済してくださる存在です。
 各派本山の法堂天井画を始めとして随処に見られるのはそういった理由からですが、同時に、そんな竜の如く自らに対しては惜しまず精進を重ね、他に向かっては苦しみや困難から救うためにことごとく施していく「自利利他」の仏法護持者としての姿勢が思い出されます。

 名古屋にある徳源寺という修行道場の師家として後進の指導に当たり、妙心寺でも管長を務められた松山萬密老師という方がいらっしゃいました。晩年は重度の白内障とほとんど聞こえない聴力と、おぼつかない足取りで道場生活はおろか日常の生活も難儀であったろうと想像いたします。半ば介護のようなことが必要な生活であっても、毎朝のお勤めと坐禅は欠かすことなく、時には付き人であった私にも教えを与えてくださり、或いは作法を指導してくださることもありました。修行から逃げ出したいと思った私を救ってくれたのは、そんな松山老師の姿であったように思います。
 ある日のこと、付き人をしていた私に「三八九(サパク)じゃ」と一言おっしゃいました。意味が分からず続きを待っておりますと「足せば分かる。しっかりと拈提してきなさい」と、帰されてしまいました。結局答えも分からず随分前に亡くなられてしまいました。
 最近になって思い出し、後を継がれた嶺興嶽老師に教えを請うと「足したら二十。ニャン(禅宗僧侶が通常用いる呉の時代の読み方)。ニャンは念(“念”も同じ読み方をする)だ」と助け船をいただきました。
 目を落とされる間際まで『懺悔文』という我が身を振り返る内容のお経を唱えながら、息を引き取られたことを思い出しました。常に我が身を振り返り、今、この瞬間をどのように生きるべきかという心が、在りし日の後ろ姿に重なって感じられます。

 即今。今この瞬間に何をすべきか? この繰り返しが登竜門そのものです。竜の如く即今に吟ずれば、雲のごとく大いなる恵みがもたらされるものなのです。
 

瀧 玄浩

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