法話の窓

歿蹤跡

 庭の花壇の草取りをしていた時のこと。勢いよく伸びた萩の根元の雑草を見分けながら引いていくと、ふっと青ジソが香り立ちました。おそらく、知らないうちに葉に触れたのでしょう。向暑の中、不意に訪れた一服の涼に「ありがたいなぁ」と心が安らぎました。
 しばし手を休めて香りを満喫。さぁもう少しがんばるぞ!と、さらに草取りを続けていると、今度はハーブの一種であるレモンバームに触れたようです。柑橘系のさわやかな香りが周囲に漂います。
 どちらの香りもほんの一瞬で、あとには何の香りも残らないのですが、草の勢いにいささかうんざりしていた私の心には何よりのご褒美として香り、そして速やかに私の心を通り過ぎていきました。
 こんなささやかな出会いから、私はふっと「歿蹤跡(もっしょうせき)」(没蹤跡)という禅語を思い浮かべました。残された跡形が全くないという意味です。分別や執着を離れた、かたよらない・こだわらない・とらわれない生き方のできる人が無心に行じるさまをいい、禅僧の生き方のひとつのモデルといえます。
 そして、この禅語といつもセットで思い起こすのが西行法師の言葉とされるこんな一文です。

 

紅虹(こうこう)たなびけば虚空(こくう)いろどれるに似たり。白日(はくじつ)かゞやけば虚空明(あき)らかなるに似たり。然(しか)れども虚空は本(もと)明らかなるものにもあらず、又色どれるにもあらず。我(われ)また此(こ)の虚空の如くなる心の上において、種々の風情をいろどると雖(いえど)も さらに蹤跡(しようせき)なし

 

 きれいな虹がたなびけば、空は一瞬にして彩られます。また太陽が昇り輝きだせば、闇夜は移り空が白々と明るくなってきます。空をキャンバスに、さまざまな景色が展開しますが、それは私たちの目に映っているだけのこと。永遠に消えない色や模様として、空に刻み込まれているわけではありません。
 空は、何を描かれても文句は言いません。そして空に描かれたものはやがて跡形もなく消えます。空はすごいですね。こんなふうにスパッスパッと切り替えて生きられたらどんなに素敵でしょう。でもこうはいかないのが私たちの「心のキャンバス」です。さまざまな思いが次々に表われては消え、消えては表われますが、私たちの場合は虚空のようにスッパリと消せないのが現実でしょう。さまざまな思いに引き回され、引きずられるのではないでしょうか。私もそうです。だからこそ、あこがれの境地、めざす姿として「歿蹤跡」がたとえられるのです。


 実はこの理想は理想として、私は、この語を別の意味で大事にしています。消えてしまうからこそ、その一瞬一瞬の風情を彩ることを精一杯楽しみたい!と思っているのです。出会う人、起きるできごと、揺れ動く心......ひとつひとつをすべて出会いと受け止め、いとおしんでいきたいと思うのです。
 そしてできたら、私に出会ってくれた人の心にシソやレモンバームのような一時の清香を感じていただければ幸せだと思います。世に名を残すような、生き方はしなくてもいい。お金も名誉も結果も残さなくていい。大事なのは、そういうことなのではないかと、最近とみに思うのです。

 

長島宗深

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