法話の窓

草抜きの願い

 お寺というところは、本当によく草が生えます。梅雨時期など、草はまことに元気です。

 ところが、多くの方はお寺に「美しい庭」をお求めです。従って、寺に住まう者は草抜きが大事な仕事になります。なかなかきれいになりませんが。時には、草が「憎らしい」と思うこともあります。しかし、草に「憎らしい」という意味は、ついていません。そういう思いを、自分が勝手に抱いているだけです。

 そもそも「草」「雑草」という名前の植物は、ないと思います。それぞれ、生物学的には学名があるのでしょう。
 きれいな花なら名前を調べ金で買いもしますが、雑草は名前も調べず引っこ抜いてポイ。それどころか「数日すればまた生えてくる。この野郎」と、将来まで呪う気持ちが生まれてきます。お店では除草剤に手が伸びそうです。
 しかし、草抜きを一所懸命しておりますと、ふとした時に草たちも一所懸命に生きていることが感じられます。

 さて、「草も生きている」ということから、「草抜きも殺生ではないか?」と疑問に思うことはありませんか? 「植物は細かくいうと心がないから引いても殺生ではない」と習った覚えはありますが、釈然としないものがあります。
 むしろ、心がないはずの草に「憎らしい」と意味づけして乱暴に引き捨てたり、「また生える」と将来まで呪ったり、除草剤を撒いたりするのは僧侶としては殺生だと感じます。草を抜く時に自分の心がどうあるのか、これが問題のようですね。
 これまでみてきましたように、草を憎んだり呪ったりするのは自分の心がそうするのでしたね。雑草が生えているのは、自分の心の方ではないですか?
 従って、草引きは第一に「憎らしい」といった自分の「心の雑草」を抜くために行ないます。また、寺に住まう者はお参りいただく方の心のために、一心に草を抜かせていただくという面もあります。やはり、来た時よりも美しい心になってお寺を後にしていただきたい。
 そして密かに、お参りいただいた皆様の心の雑草が抜けているように祈りつつ、お見送りしているのです。

伊達義典

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