心頭滅却
今年は本当に暑い夏でした。お盆の週間天気予報を見て、気温32度で涼しいと感じたのは今年が初めてです。まだまだ残暑厳しく、寝苦しい夜もありますが、澄んだ夜空と冴える月が秋の気配を感じさせる今日この頃です。
禅の言葉に「心頭滅却すれば、火自ずから涼し」という言葉がございます。この句は元々、中国の詩人・杜筍鶴の詩にみられますが、日本で広く知られるきっかけとなったのは、臨済宗妙心寺派の禅僧、快川紹喜禅師の逸話にあります。
快川禅師は戦国時代、甲斐の武田信玄に招かれ恵林寺に入寺し、武田家の相談役も務めた名僧です。しかし、武田軍を攻めた織田軍によって恵林寺は焼き討ちに遭います。快川禅師は山門の上に逃げ集まった弟子たちに対して、「この機に臨んでどう法輪を転ずるか、一句言ってみよ」と投げかけ、弟子たちはそれに応えます。そして、いよいよ炎が迫った中で、最後に快川禅師が「安禅は必ずしも山水をもちいず。心頭滅却すれば、火自ずから涼し」と唱えて、燃えさかる炎の中に身を投じたと伝えられています。
「心頭滅却」の「頭」と「却」はともに助字で意味を持ちません。つまり「心」を「滅」するということです。心を滅するとは、心をなくしてしまう事ではなく、心を整えるということです。自分自身の心を整えていくことによって、暑い時は暑いに徹して、自然と受け入れていくということです。そしてここでいう「火」や「暑さ」は、広義に捉えれば「煩悩」と言い換えられます。煩悩は常にありますが、それをどう捉えていくのか、どう向き合っていくのかということです。向き合うのは外側ではなく、内側の自分自身。自分の心と向き合い、心を整えていくことが大切だということです。
ちなみに、恵林寺の火攻めを命じた織田信長自身も、本能寺で火に囲まれます。その際、家臣から明智光秀が謀反を起こしたという知らせを受け、「是非に及ばず」と言ったと伝えられています。是でも非でもない、仕方のないことだと。戦国の世の道理や、生き死にの道理をしっかりと受け入れ、心を整えて放った言葉のように感じます。
しかしながら、私たちはついつい暑さ寒さにばかりとらわれてしまいます。空に浮かぶ雲のように煩悩は次から次へと湧いてきます。夜空には明るい月が照らしているにもかかわらず、煩悩の雲を浮かべては、その光に照らされている事を忘れてしまいがちです。
月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ(法然上人)
秋の寝苦しい夜長には、心頭滅却し澄んだ月を眺めながら、ゆっくりと心を整え、自分の心を澄ましてみては如何でしょうか。
戸﨑祥之