春風吹いてまた生ず
唐の詩人白居易の「古原草を賦し得て別を送る」詩に「野火焼けども尽きず、春風吹いて又た生ず」という句があります。白居易が都の、長安で活躍するようになれた端緒ともなった有名な句です。
その首聯「離離(りり)たり原上(げんじょう)の草。一歳(いちざい)に一(ひと)たび枯栄(こえい)す」に続きます。「はなればなれになる日、この野原の草も年々枯れたり生えたりする。冬になって枯れた草を野火が焼き尽くしても草は根まで燃え尽きることはなく、春風が吹いて来るとまた芽生えてくる」という意味です。
一般に、この句は春の息吹を如実に示した、「いのち」の再生に対する讃歌としてとらえられているようです。木々の芽吹きを見るとき、本格的な春の到来を感じます。固い冬芽がだんだんとふくらみ、潤いを帯びた春の空気に芽を出す。これこそが春の到来でしょう。冬枯れの野も、緑の若草に覆われ、いのちの息吹を感じさせてくれる春。そんな季節を私たちは待つのです。春は万物のいのちの再生と活動の再開を端的に教えてくれる季節です。
しかし、禅語ではこの句に別の解釈を与えます。そえは「生ずる」ものを何と捉えるかの違いです。禅語では、「修行によって心をすっかり浄化させ、焼き尽くしたと思い、煩悩がなくなったように見えても、その根源には焼き尽くすことのできない煩悩がしっかりと残っている。ゆえに、不断の努力なしには煩悩の滅除は困難である」との解釈です。ここには、因果律を見据えた仏教ならではの発想があるようです。宋代の詩人であり、禅に対する造詣も深かった蘇東坡が書いた『地獄図』の跋文に、「その造業の因を見ずにして、その受罪の状を見る。悲しいかな。悲しいかな」と記し、続けてこの対句を引いていることからも推測されます。
ところで、白居易自身の意は何処にあったのでしょうか。「一歳に一たび枯栄す」との表現から見れば、上の2つの解釈はともに少しく深読みしているようです。白居易は自然の摂理としての遷移を述べているだけで、そこにこれといった寓意は込められていないのではないでしょうか。「一種の春風両般あり」という言葉もあるように両般のあるなしに拘りすぎると、せっかくの本意を見誤ってしまうこともありそうです。
このように、中国の古典から引かれる言葉にも、それを解釈する人と、視点の相違によって、全く異なったものとなる場合があります。そして禅語ではあえて一般とは異なった視点を提起する場合が多いのも事実です。大切なことは、それらの解釈を固定化せずに、自身の見解を求め続けることではないでしょうか。
以下は参考です。
「賦得古原草送別」 白居易
離離原上草 一歳一枯栄
野火焼不尽 春風吹又生
遠芳侵古道 晴翠接荒城
又送王孫去 萋萋満別情
『太平広記』◎顧況
尚書白居易応挙。初至京。以詩謁著作顧況。況覩姓名。熟視白公曰。米価方貴。居亦弗易。乃披巻。道篇曰。離離原上草。一歳一枯栄。野火焼不尽。春風吹又生。却嗟賞曰。道得箇語。居即易矣。因為之延誉。声名大振。出〈幽閒鼓吹〉。
『蘇軾文集』【跋呉道子地獄変相】
道子、画聖也。出新意於法度之内、寄妙理於豪放之外、蓋所謂游刃余地、運斤成風者耶。
観《地獄変相》、不見其造業之因、而見其受罪之状、悲哉。悲哉。能於此間一念清浄、豈無脱理、但恐如路傍草、野火焼不尽、春風吹又生耳。元豊六年七月十日、斉安臨皐亭借観。
久司宗浩